現代国内 2010
狙われたのはチェス王者。
事故は護衛を襲い続ける。
『キング&クイーン』柳広司

書評

キング&クイーン

チェス世界王者の護衛依頼から始まる、盤上の読み合いをそのまま骨組みにした長編。

キング&クイーン 表紙画像
柳広司 講談社(講談社文庫)2010年
目次

チェスの世界王者を、元警視庁のSPが護衛する。この一行だけで、物語の骨組みはほとんど言い切れます。

相手の手を読み、次の一手を封じる。盤上の勝負と要人警護は、やっていることの形がよく似ています。

柳広司『キング&クイーン』は、その相似をまるごと小説の構造に取り込んだ長編です。講談社創業百周年の記念作として2010年に書き下ろされ、2012年に講談社文庫に入りました。

物語の入り口

「巨大な敵に狙われている」。依頼はその一言から始まります。

元警視庁SPの冬木安奈が引き受けたのは、チェスの世界王者アンディ・ウォーカーの護衛です。誰が、なぜ、どうやって狙っているのか。

依頼の中身は、肝心なところがぼかされたままです。それでも安奈は任務に就き、王者の隣に立ちます。

そこから、次々と奇妙な「事故」が安奈を襲います。事故と呼ぶには妙で、事件と呼ぶには証拠がない。

護衛の仕事は、起きてしまってからでは遅い仕事です。安奈は起きる前に読まなければならず、読むためには、相手が誰かを知らなければなりません。

世界王者を狙うのは誰なのか。その問いが、物語の最初から最後までを引っぱっていきます。

チェスの世界王者は、公の場に出るたびに衆目を集めます。護衛の対象として、これほど隠しにくい人物もいません。

どこにいて、いつ盤の前に座るのかが、あらかじめ世界中に知られているのですから。安奈の仕事は、隠せない人物を守る仕事です。

作中には、こんな三箇条が掲げられています。

一、相手の手を、注意深く読め。 一、相手の心を、注意深く読め。

一、考えろ。無限の可能性を疑え。

チェスの心得としても、護衛の心得としても読める言葉です。盤上で相手の手を読むことと、王者の周囲で敵の手を読むこと。

二つの読みが同じ形をしている、というのがこの本の骨組みです。護衛の仕事に就いた元SPが、チェスの世界王者という、読みの専門家の隣に立つ。

二人の距離の近さが、盤上と現実とを行き来する物語の器になっています。

読みどころ

読みどころは、盤上の思考法が、そのまま護衛という仕事の描き方になっているところにあります。 チェスは、相手の全部の駒が見えている競技です。

隠された情報はなく、あるのは読みの深さの差だけ。護衛の仕事は逆で、相手の駒は見えません。

見えない盤に向かって、見えている盤と同じ読みを働かせる。安奈の置かれた条件のその違いが、緊張の質を決めています。

もう一つは、テンポです。護衛ものの緊張は、何かが起きる瞬間より、何も起きない時間にあります。

次はいつ、どこから来るのか。安奈と一緒に周囲を見回しながら読むことになるので、384ページが長く感じられません。

護衛の仕事は、成功しても何も起きないだけです。起きなかったことの値打ちが、安奈の緊張を通して伝わってきます。

チェスのルールを知らなくても差し支えありません。読み合いの形さえ伝われば、駒の名前は追って覚えれば足ります。

逆に、チェスをよく知る人には、盤上の読みが盤の外でどう使われるかを見る楽しみがあります。

そして、それまで遠い時代と土地ばかりを舞台にしてきた作家が、記念の枠で現代を選んだという事実。遠い時代を借りずに、同じ切れ味の読み合いが成立するのか——その問いに対する答えが、この一冊です。

答えは、成立する、でした。

作品の背景

デビュー以来、柳広司が選んできた舞台は、古代ギリシア、明治のロンドン、戦前の陸軍と、遠い時代か遠い土地です。2008年の『ジョーカー・ゲーム』で名前が一気に広まった、その勢いのただなかで書かれたのが、この一冊です。

刊行のきっかけは記念事業でした。講談社創業百周年記念の書き下ろしとして、2010年5月に単行本が出ています。

百年に一度の枠で、この書き手が選んだのは、遠い時代でも遠い土地でもなく、現代を舞台にしたチェスと護衛の物語でした。それまでの路線から見れば、大きな踏み出しです。

評価は届いていて、週刊文春ミステリーベスト10の2010年で19位、「ミステリが読みたい!」の2011年で11位。

手に取るなら

現行版は講談社文庫、384ページ。シリーズものではない独立した長編なので、柳広司の初読にも向いています。

『ジョーカー・ゲーム』から入った人には、同じ作家の読み合いが現代を舞台にするとどうなるかを確かめる本として。あちらの主役は組織で、こちらの主役は二人です。

人数が減ったぶん、読み合いは近く、速くなります。護衛の仕事の緊張を味わいたい人には、そのまま。

「巨大な敵に狙われている」——その依頼を、安奈と一緒に受けてみてください。

柳広司について

柳広司は1967年、三重県に生まれました。神戸大学法学部を卒業し、1998年に「挙匪(ボクサーズ)」で第4回歴史群像大賞の佳作に入ったのち、2001年に原書房から出た『黄金の灰』で小説家になります。

同じ年には『贋作『坊っちゃん』殺人事件』で第12回朝日新人文学賞を受けました。

初期の仕事の軸は、実在の人物や名作を借りて謎解きを組むことでした。シュリーマン、ソクラテス、マルコ・ポーロ、夏目漱石、シートンといった人々が、探偵役や事件の当事者として作中に呼びこまれます。

2008年の『ジョーカー・ゲーム』は陸軍のスパイ養成機関「D機関」を描いた連作で、翌年に第30回吉川英治文学新人賞と第62回日本推理作家協会賞をそろって受け、以後シリーズとして書き継がれました。歴史の枠組みに架空の事件を差し込む手つきは、スパイ小説に移ってからも変わっていません。

書誌情報

出版社
講談社 / 講談社文庫
刊行年
2010
ISBN-13
9784062771986
系譜
現代国内

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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