人の奇跡には裏がある。
ブラウン神父の不信
シリーズ第三短編集。「犬のお告げ」など名作が並ぶ、神父探偵の真骨頂。
「奇跡が起きた」と人々が青ざめるところへ、この探偵はやってきます。小柄で、いてもいなくても気づかれないような、一人のカトリック司祭。
神の起こす奇跡は信じても、人間が起こしたとされる「奇跡」だけは、彼はたやすく信じません。怪異めいた出来事、超自然を装った謎——そのたびに神父は、恐怖の裏にひそむ人間のからくりを、声を荒らげることもなく静かに解きほぐしていきます。
〈ブラウン神父〉シリーズ第三短編集『ブラウン神父の不信』は、その逆説の手つきを、これでもかとたっぷり味わえる一冊です。
物語の入り口
本書が置かれているのは、シリーズのなかほどです。『童心』『知恵』と続いてきた神父の事件簿の、第三短編集にあたります。
数ある〈ブラウン神父〉の巻のなかでも、とりわけ傑作が集まっているのがこの第三集だ——版元がそう太鼓判を押すほどの、密度の高い一冊です。収められているのは、「ブラウン神父の復活」「天の矢」「犬のお告げ」「ムーン・クレサントの奇跡」「金の十字架の呪い」「翼ある剣」「ダーナウェイ家の呪い」「ギデオン・ワイズの亡霊」の八編。
呪いに、亡霊に、奇跡——タイトルに並ぶ言葉を眺めるだけで、どこか怪奇の匂いが立ちのぼってくるのがわかります。持ち込まれるのは、いずれも超自然としか思えない出来事の数々。
人々が息をのむその場所に、神父はいつもの落ち着いた足取りで現れます。
なかでもまず名前が挙がるのが「犬のお告げ」でしょう。これを読まずしてブラウン神父は語れない、とまで評される一編です。
もうひとつ、「ムーン・クレサントの奇跡」では、チェスタトンならではの大胆で奇想天外な密室トリックが炸裂します。とはいえ、どの謎がどう畳まれるのかを先回りして知る必要はありません。
読者はただ、次々と持ち込まれる不可解な出来事の前に立たされ、神父と同じ地点から「これは本当に奇跡なのか、それとも——」と首をかしげればいい。信じないことから出発する探偵の隣で、いつのまにか自分も世界の裏側を覗き込んでいる。
そんな居心地の、少しスリリングな読書が待っています。
読みどころ
この短編集の芯にあるのは、信じない者だからこそ怪異を解けてしまう、という逆説です。 超自然を頭ごなしに否定するのでも、やみくもに怖がるのでもなく、神父はただ人間の仕業を人間の目で見据えます。
その冷静さが、怪奇の霧を一枚ずつ晴らしていく。派手な推理合戦ではなく、静かな観察と一言の指摘で謎の姿がくるりと反転する——名探偵に身をゆだねる愉しみを、これほど純度高く差し出してくれる連作もそう多くありません。
短編集であることの気安さも、見逃せない美点です。長編のように腰を据えなくても、一編ずつ、区切りのよいところで本を閉じられる。
それでいて、読み終えるごとに小さな驚きが残るので、つい次の扉を開けてしまう。名作として名高い一編から先に開いてもいいし、最初の頁から順に神父と歩を合わせてもいい。
読み手のペースに委ねてくれる自由さも、連作短編ならではの魅力です。黄金期ミステリの薫りをまとった古典でありながら、通勤の合間や眠る前のひとときにも似合う、懐の深さがあります。
名探偵の鮮やかな一手に身を任せたい読者、そして逆説とウィットのきいた語り口を楽しめる読者には、まっすぐ薦められる一冊です。逆に、章をまたいでひとつの大きな事件を追いかける長編のうねりや、血の匂いの濃いサスペンスを求めていると、この静かな知恵比べは物足りなく映るかもしれません。
けれど、その端正さこそがブラウン神父の持ち味。怪異が理屈でほどけていく心地よさは、一度知るとくせになります。
作品の背景
チェスタトンの〈ブラウン神父〉の連作は、コナン・ドイルの作品と並んで後世の作家たちに計り知れない影響を与えたと言われ、いまなおミステリの源流のひとつとして読み継がれてきました。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫版が入り口になります。訳は中村保男、巻末には法月綸太郎による解説を収めています。
読みやすく改められ、新しいカバーでリニューアルされているので、はじめてこのシリーズに触れる人にも心強い一冊です。『童心』『知恵』を先に読んでいればなおのこと味わいは増しますが、本書一冊から入っても、神父の魅力は十分すぎるほど伝わってきます。
まずはこの第三集で、怪異の裏に人の顔を見つけ出す名探偵の、静かな鮮やかさに出会ってみてください。
G・K・チェスタトンについて
G・K・チェスタトンは1874年、ロンドンのケンジントンに生まれ、1936年に亡くなったイギリスの作家・批評家です。画家を志してスレード美術学校に学んだのち文筆に転じ、新聞のコラムで長く健筆をふるいながら、詩、評論、評伝、小説と膨大な量の文章を残しました。
逆説で常識の裏を突く論法と、諧謔に富んだ語り口が持ち味です。
小説では、長編『木曜の男』と、小柄なカトリックの司祭を探偵役にしたブラウン神父の短編シリーズがよく知られています。1922年には自身もカトリックに改宗しました。
探偵小説の書き手としての重みは同時代にも認められ、英国の推理作家の団体ディテクション・クラブでは初代会長を務め、亡くなるまでその座にありました。
書誌情報
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