現代国内 2019
無人の集落に人を呼んだ。
一人また一人と去っていく。
『Iの悲劇』米澤穂信

書評

Iの悲劇

無人になった集落に人を呼び戻す市役所の部署が、移住者たちの謎に向き合う連作短編集。

Iの悲劇 表紙画像
米澤穂信 文藝春秋(文春文庫)2019年
目次

一度は人がいなくなった土地に、もう一度人を住まわせる。『Iの悲劇』は、その仕事を正面から引き受けた人たちの話です。

山あいの小さな集落・簑石は、最後の住人が去って無人になり、6年が過ぎました。そこへ移住者を呼び戻すIターンプロジェクトが市長の肝いりで始動し、市役所に「甦り課」という部署が置かれます。

ところが、公募で集まってきた定住希望者たちは、次々とトラブルに見舞われ、一人また一人と簑石を去っていく。過疎地のリアルと、風変わりな謎。

その二つが同じ現場に並ぶ悲喜劇を、米澤穂信は連作の形で描きました。

物語の入り口

簑石の再生プロジェクトを担うのは、南はかま市役所の「甦り課」です。移住者たちの支援を担当することになった万願寺が、実務を一手に引き受けることになる。

課長の西野も、新人の観山も、やる気がない。身も蓋もない言い方ですが、そのとおりなのです。

市長の肝いりで始まった事業の現場に、熱意のある人間がひとりしかいない。行政の現実としては、あまりに身につまされる配置です。

市長の看板事業なのに、予算は限られ、人手も足りない。それでも人を呼び戻さなければならない。

万願寺の仕事は、そういう条件のもとで始まります。

公募で集まってきた定住希望者たちは、それぞれに事情を抱えて簑石へやってきます。ところが暮らしが始まると、彼らは次々とトラブルに見舞われ、一人また一人と集落を去っていく。

せっかく呼び戻した人が、また出ていく。万願寺にとっては、事業の失敗がそのまま自分の仕事の失敗です。

何が起きているのか。なぜ、人は定着しないのか。

読者は、万願寺と同じ、板挟みの担当者の位置に立たされます。上には市長の期待があり、横にはやる気のない同僚がいて、目の前には去っていく移住者がいる。

持ち上がる問題はどれも生活のすぐそばにあるもので、派手な道具立ては出てきません。それでも、示された条件だけで詰めていける手応えはしっかりあります。

全6章の題は「軽い雨」「浅い池」「重い本」「黒い網」「深い沼」「白い仏」。一章ずつ、簑石という土地の輪郭が描き出されていきます。

読みどころ

人口減少と限られた予算という動かしがたい現実が、終始この物語の地面として横たわっています。 謎解きの舞台は、館でも孤島でもなく、市役所の一課と過疎の集落。

そこで起きる風変わりな出来事を、担当者の目線で追いかける。行政の手触りを残したまま謎解きを組み立てる、ちょっと類のない一冊です。

もうひとつは、9年をかけて書き継がれたという成立の経緯です。最初の一篇の時点で全体の構想があった、という事実が、連作としての読み心地を支えています。

一章ごとに区切って読めるのに、通して読むと、土地と人の輪郭が一つの形を結んでいく。しかもこれは悲喜劇で、笑えるところと、笑えないところが同じページに並びます。

やる気のない課長と新人に挟まれた担当者の奮闘には、どこか喜劇の色があり、去っていく移住者たちの背中には、悲劇の色がある。その二つを一冊のなかで両立させているところに、この連作の腕があります。

こんな人におすすめ

派手な事件より、生活のすぐそばにある謎を好む読者、地方や行政の現実に関心のある読者に向いています。一章あたりの分量が程よいので、まとまった時間が取れない時期でも進められます。

逆に、名探偵の華やかな推理や、緊迫した追跡劇を求める気分のときには、この市役所の淡々とした時間は少し地味に映るかもしれません。ただ、その地味さのなかにこそ、この本の手応えはあります。

作品の背景

本書の単行本が出たのは2019年9月、文藝春秋から。もとになった一篇が雑誌に載ったのは2010年のことで、そこから断続的に書き継がれ、書き下ろし2篇を加えて一冊にまとまるまでに9年かかりました。

しかも最初の一篇を書いた時点で、すでに全体の構想は立っていたといいます。2022年9月には文春文庫に入り、416ページ、解説は篠田節子。

刊行の年の暮れには、週刊文春ミステリーベスト10の国内部門で4位、翌年版の「このミステリーがすごい!」で11位、本格ミステリ・ベスト10で12位と、主要なランキングが揃って本作を拾い上げました。

手に取るなら

現行版は文春文庫。ほかのシリーズを知らなくても問題ありません。

米澤穂信の作品のなかでも、題材の地味さと読後の手応えの落差がとりわけ大きい一冊なので、この作家の幅を確かめたい人にも向いています。

米澤穂信について

米澤穂信は1978年、岐阜県の生まれです。金沢大学文学部の在学中からウェブサイトで小説を発表しており、大学時代に北村薫の『空飛ぶ馬』『六の宮の姫君』を読んで衝撃を受け、ミステリへ進む道を定めたといいます。

卒業後は書店で働きながら書き続け、2001年に『氷菓』で第5回角川学園小説大賞ヤングミステリー&ホラー部門奨励賞を受けてデビューしました。

高校生の身の回りの謎を扱う〈古典部〉〈小市民〉の両シリーズを書き継ぐ一方、大人の読者に向けた長編や短編集へも領域を広げてきました。2011年に『折れた竜骨』で第64回日本推理作家協会賞、2014年に『満願』で第27回山本周五郎賞を受け、2021年刊の『黒牢城』では第12回山田風太郎賞に続いて第166回直木三十五賞と第22回本格ミステリ大賞を受けています。

2025年には〈小市民〉シリーズで第10回吉川英治文庫賞を受けました。

書誌情報

出版社
文藝春秋 / 文春文庫
刊行年
2019
ISBN-13
9784167919313
系譜
現代国内 / 連作短編
受賞歴
·

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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