九段は首無しで見つかった。
囲碁殺人事件
対局二日目の朝に姿を消した九段。天才少年探偵が初めて動く一作。
知能指数208。牧場智久という少年が物語に登場するとき、まず添えられるのはこの数字です。
その隣には、年の離れた大脳生理学者・須堂信一郎が並びます。少年と学者の二人組が初めて事件の前に立つのが、竹本健治『囲碁殺人事件』です。
舞台はタイトル戦の対局場、題材はもちろん碁。1980年に世に出た〈ゲーム三部作〉の第一弾であり、牧場智久のシリーズも、この一作から歩き出しました。
物語の入り口
第七期棋幽戦、第二局。盤をはさむ一方は、〈碁の鬼〉と称される槇野猛章九段です。
一日目の対局は、その槇野九段が放った妙手で幕を下ろします。勝負の行方は、翌朝に持ち越されました。
タイトル戦の緊張は、本来ならこのまま二日目の盤上へ持ち越されるはずでした。
タイトル戦の二日目は、対局者が二人とも盤の前にそろって、はじめて動き出します。翌日の朝、対局の時刻になっても、槇野九段は現れません。
九段が見つかったのは、近くの滝の岩棚でした。首のない屍体となって。
勝負の続きを見届けるはずだった朝が、そのまま殺人事件の朝に置き換わります。盤上の張りつめた静けさと、岩棚の首無し屍体——その落差が、この物語の最初の一撃です。
そこへ、もう一枚の札が加わります。死の二週間前、ある奇妙な詰碁が目撃されていました。
その詰碁は、殺人予告だったのか。問いはそこで宙に浮いたまま、答えを待っています。
詰碁は本来、盤上の正解をひとつ探し当てるための問題です。その問題が、盤の外の死と結びつけられて語られるところに、この事件の不穏さがあります。
謎に挑むのは、知能指数208の少年と、人間の脳を研究する学者です。直観のように盤面をつかむ少年の頭と、人間の脳の側から現象を眺める大人の視線。
性質のまったく違う二つの目が、同じ不可解な出来事に向けられます。読者は、対局の再開を待っていたはずの朝に据えられ、首のない屍体と、二週間前の詰碁という二つの謎を手渡されます。
二人の最初の仕事は、ここから始まります。
読みどころ
読みどころは、碁を知り抜いた書き手が、タイトル戦の空気ごと事件を組み立てている点にあります。
棋幽戦というタイトル戦、〈碁の鬼〉という異名、一日目を締めくくる妙手、そして詰碁。事件をかたちづくる材料は、どれも碁盤のまわりから拾われています。
アマ強豪として大会にまで出た作家だけに、対局場の張りつめ方や盤上の描写には確かな手ざわりがあります。それでいて、囲碁のルールを知らない読者にも届くように書かれているので、石の置き方ひとつ知らなくても置いていかれることはありません。
碁の世界に通じた人は描写の正確さを、碁を知らない人は未知の世界の覗き窓を、それぞれ受け取れるはずです。
もうひとつは、探偵役の組み合わせの妙です。人並み外れた、ほとんど漫画のような数字を背負った少年。
その隣に大脳生理学者を置いたところに、この作家らしい遊び心があります。少年の鋭さと大人の知識——年齢も立場も違う二人が、同じ盤面を別々の側から覗き込むという構図そのものが、陰惨な発端の重さに、どこか軽やかな風を通しています。
シリーズの開幕作として、この二人がどんな呼吸で謎に向き合うのかを最初に見届けられるのも、第一弾ならではの楽しみでしょう。
こんな人におすすめ
囲碁や将棋の世界を舞台にした推理小説を探している人には、まず手に取ってほしい作品です。盤上の知識がなくても、タイトル戦の緊張と奇妙な詰碁の謎だけで十分に引き込まれます。
年の離れた二人が組む探偵ものの取り合わせが好きな人にも向くでしょう。反対に、首を失った屍体という題材そのものに抵抗がある人は、少し身構えて開いたほうがよいかもしれません。
作品の背景
1977年のデビューから3年後、1980年7月に竹本健治がCBSソニー出版から送り出したのが『囲碁殺人事件』でした。囲碁、将棋、トランプと題材を替えて続く三作の最初にあたり、河出文庫、角川文庫と版を移したのち、2004年2月に創元推理文庫へ収まっています。
手に取るなら
いま手に取るなら、2004年2月刊の創元推理文庫版(254ページ)が手ごろです。2017年には講談社文庫にも入り、こちらには短編「チェス殺人事件」が併録されています。
どちらの版で読んでも、物語の芯は変わりません。三部作は『囲碁殺人事件』『将棋殺人事件』『トランプ殺人事件』の順に刊行されていて、牧場智久と須堂信一郎の顔合わせを知るには、やはりこの第一弾から入るのが自然です。
〈碁の鬼〉が姿を見せなかった朝から、少年と学者の最初の事件に付き合ってみてください。
竹本健治について
竹本健治は1954年、兵庫県相生市に生まれました。東洋大学文学部哲学科に在籍していた1977年、『虚無への供物』の中井英夫の推薦を受けて、探偵小説専門誌『幻影城』で長編『匣の中の失楽』の連載を始め、世に出ます。
新人がいきなり長編を連載するという異例のデビューで、メタミステリの書き手として注目を集めました。
『幻影城』の廃刊後は、天才少年囲碁棋士・牧場智久が登場する〈ゲーム三部作〉を発表し、一時はSFにも活動の場を移します。1991年には作者自身や実在の作家たちを作中に登場させる『ウロボロスの偽書』を刊行しました。
2016年の『涙香迷宮』は「このミステリーがすごい!」2017年版国内編で1位となり、翌年には第17回本格ミステリ大賞を受けています。大学で囲碁研究会に入り、アマチュアの全国大会にも出場した打ち手で、盤上の遊戯はしばしば作品の題材になっています。
書誌情報
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