ミステリーとしての読みどころ
一枚の絵を前にして、これは巨匠の真筆か、それとも精巧に仕立てられた偽物か——そう問わねばならない瞬間があります。『偽りの名画』は、まさにその一点の疑いから、絵画と人間の欲望が絡み合う事件へと踏み込んでいく美術ミステリです。
著者について
著者アーロン・エルキンズは、専門知識を手がかりの中心に据えるミステリで名を知られた書き手です。とりわけ、人骨から死者の来歴を読み解くスケルトン探偵ものは彼の代名詞で、その道の専門家だからこそ気づける微細な違和感を推理の起点にする——そんな緻密な作風で長く読者を惹きつけてきました。
1987年に発表された本作は、ルネサンス美術に通じた美術館学芸員クリス・ノーグレンを主人公とするシリーズの、記念すべき第1作にあたります。骨に代わってここで物言わぬ証人の役を担うのは、額縁のなかに収まった一枚一枚の絵画です。
専門家の目にしか映らないものを手がかりに変えるという、エルキンズならではの持ち味が、美術という舞台の上でどう発揮されるのか。その最初の答えが、この作品には収められています。
物語の舞台は、ベルリンで開かれる大がかりな名画展です。展示されるのは、第二次世界大戦中にナチスによって掠奪され、戦後になってようやく返還された重要な作品ばかり。
歴史の激流に呑まれ、持ち主の手を離れ、長い年月を経てふたたび陽の当たる場所へ戻ってきた名画たちが、ひとつの会場に集められる——美術に携わる者であれば、その顔ぶれを想像するだけで胸の高鳴りを抑えられない催しでしょう。ルネサンス美術を専門とする学芸員クリス・ノーグレンも、この展覧会を手伝うためにベルリンへ赴きます。
並みいる傑作を間近に扱えるとあって、彼の足取りは軽く、仕事はいつになく心躍るものになるはずでした。
ところが、その高揚に冷や水を浴びせる声が上がります。名画展の主任が、展示作のなかに「贋作がある」と主張し始めたのです。
世界大戦をくぐり抜け、由緒正しい来歴とともに返還されてきた名画のなかに、本物の顔をした偽物が紛れている——もしそれが事実なら、展覧会の根幹どころか、その絵をめぐる歴史そのものを揺るがしかねない指摘です。会場にはにわかに静かな緊張が漂います。
そして、その言葉が宙に浮いたまま、まもなく主任は歓楽街で不可解な死を遂げてしまうのです。真贋をめぐる疑念と、突然もたらされたひとつの死。
この二つが重なり合った瞬間から、クリスの立つ場所は、名画を愛でる学芸員の穏やかな席から、絵画にまつわる黒い策謀と人々の欲望が渦を巻く事件の只中へと、音もなく移り変わっていきます。
読みどころ
この作品の芯にあるのは、絵画そのものを証拠として読み解いていく知的な面白さです。 凶器や足跡ではなく、筆の運び、絵具の質感、時代様式のかすかなずれ——専門家の目にだけ映る手がかりが、事件をほどく鍵になっていく。
美術という、一見するとミステリから最も遠く思える世界が、実は真贋を見極める緊張に満ちた領域であることを、本作は鮮やかに示してみせます。一枚の絵は、描かれた瞬間から現在に至るまでの来歴を身にまとった、いわば無数の証言を抱えた物言わぬ証人でもある。
それをどう読むかで、目の前の景色はまるで違ってきます。読者は、ノーグレンの専門家としての視線を間近から借りながら、一枚の絵の前で「これは本物なのか」と、彼と一緒に息を詰めることになります。
知識が武器になり、観察が推理になる。その手応えこそが、このシリーズが長く読み継がれてきた理由なのでしょう。
美術ミステリと聞くと敷居の高さを感じるかもしれませんが、身構える必要はありません。ノーグレンは学者然とした近寄りがたい人物ではなく、絵を愛し、贋作の疑いに胸をざわつかせる、体温のある案内人です。
彼の目を通すことで、専門用語の壁ではなく、名画をめぐる人間の欲や執着のほうが、するりと胸に入ってきます。難解な鑑定の理屈を知らなくても、「本物と偽物を見分ける」という一点さえ共有できれば、物語は読者をしっかり引き込んでいきます。
こんな人におすすめ
相性で言えば、絵画や美術史そのものに関心のある読者、あるいは専門知識が推理と分かちがたく結びついていくタイプのミステリを好む読者には、とりわけ深く楽しめる一冊です。派手な暴力やスピードで押し切る物語ではなく、知識と観察が一歩ずつ事件をほどいていく展開なので、慌ただしく先を急ぐよりも、腰を据えてじっくり謎と付き合いたいときにこそ、その味わいは増していきます。
逆に、目まぐるしい展開の連続やアクションの疾走感を第一に求める読者には、少し静かに映る場面もあるかもしれません。
手に取るなら
入手はハヤカワ・ミステリ文庫版で、邦訳は1998年に刊行されました。学芸員クリス・ノーグレンを主人公とする美術ミステリのシリーズは、この一作から幕を開けます。
絵画の世界を舞台にした謎解きに心を惹かれたなら、まずはこの出発点から、名画と対話する探偵の歩みをたどってみるのがおすすめです。