口にできない理由もある。
皇帝のかぎ煙草入れ
誤認と思い込みの罠を突く、カー随一のミスディレクションが冴える非シリーズの名品。
南フランスの陽射しあふれる避暑地で、ひとりの若い女性が殺人の容疑者になります。婚約したばかりの相手の父親が命を奪われ、その夜、彼女には身の潔白を証すすべがありませんでした。
怪奇と不可能犯罪の巨匠として名を馳せたジョン・ディクスン・カーが、超自然の道具立てを一切持ち込まず、純然たる論理と人の心の綾だけで組み上げた一編。それが『皇帝のかぎ煙草入れ』です。
読み終えたとき、あのアガサ・クリスティさえ舌を巻いたと伝わります。
物語の入り口
物語の舞台は、フランスの避暑地ラ・バンドレット。若いイヴは最初の結婚に区切りをつけ、いま新しい人生に踏み出そうとしています。
婚約者はトビイ。その父はこの土地に暮らすサー・モーリスです。
穏やかな再出発が約束されていたはずの日々は、しかしある夜を境に暗転します。
サー・モーリスが殺害されたのです。そして犯行のあった夜更け、イヴは現場に面した自分の家の寝室にいました。
ふつうなら、それはむしろ彼女を守ってくれる事実だったかもしれません。ところが、その部屋には招かれざる客がいました。
別れたはずの前夫ネッドが、忍びこんでいたのです。彼の存在ゆえに、イヴは自分がどこにいたかを正直に打ち明けることができない。
潔白を証すはずのアリバイが、口にした瞬間に別の醜聞へと姿を変えてしまう——彼女はそういう板挟みへと落ちていきます。
さらに、完璧な状況証拠が次々と彼女に不利に積み上がっていきます。誰の目にも彼女が疑わしく映る。
声を上げれば別の破滅が待ち、黙っていれば殺人犯にされる。イヴは、まさに絶体絶命の窮地へと追いつめられていくのです。
読者は、この息苦しい包囲を、容疑をかけられた女性のすぐ隣で味わうことになります。事件の全貌を高みから見下ろす探偵の側ではなく、逃げ場を失っていく当人の心細さのほうへ立たされる。
だからこそ、一枚また一枚と証拠が重なるたびに、こちらの胸まで締めつけられていきます。彼女は本当に無実なのか。
無実だとして、この隙のない状況をどう突き崩せるのか。読み手の関心は、おのずとそこへ吸い寄せられていきます。
この窮地に手を差し伸べるのが、心理学者のダーモット・キンロスです。派手な立ち回りを見せる探偵ではありません。
人の心の動きに静かに目を凝らす観察者。彼が事件に踏み込むことで、行き詰まっていた状況が少しずつ別の光に照らされていきます。
読みどころ
本書がいまも読み継がれるのは、カーのミスディレクションがここで極点に達しているからです。 大がかりな密室も、超自然の見世物もありません。
あるのは、南フランスの避暑地とひと組の男女、そして一夜の出来事だけ。その簡素な素材だけで、これほどの驚きを立ち上げてみせる手際こそ、カーが〈巨匠〉と讃えられる理由にほかなりません。
そしてその驚きに、あのクリスティが「脱帽する」と唸ったのです。
怪奇の名手というカーの看板から、おどろおどろしい雰囲気ものを思い描いて開くと、本書にはいい意味で裏切られます。ここで働いているのは、あくまで筋の通った論理です。
超自然に頼らないと決めたぶん、事は読者の目の前で進んでいく。手がかりが隠されているわけではありません。
それでいて、読み手はまんまと運ばれてしまう。フェアな謎解きの手ごたえと、見事にしてやられる快感とを同時に味わえるところに、本書の非凡さがあります。
こんな人におすすめ
込み入った密室や大がかりな不可能状況を心ゆくまで堪能したい読者には、本書の簡素な作りは少し物足りなく映るかもしれません。飾りの多い一冊ではないからです。
けれど、余計なものをそぎ落としたぶん、一点に凝らされた技巧の切れ味はむしろ際立ちます。追いつめられた女性の心細さに寄り添いながら、最後に大きな驚きを浴びたい——そんな読書を求める人にこそ、本書はまっすぐ届きます。
分量もほどよく、一夜で読み通せる密度です。
作品の背景
カーが、シリーズ探偵の助けを借りずに書いたのが本書でした。発表は1942年。
フェル博士もメリヴェール卿も登場しない独立作で、得意の怪奇趣味も封じられています。舞台を照らすのは奇怪な超自然ではなく、南フランスの明るい光。
にもかかわらず、いや、だからこそ、カーの技巧はここで最も澄んだかたちを取ることになりました。長く読み継がれ、代表作のひとつに数えられてきた所以です。
手に取るなら
いま手に取るなら、東京創元社の創元推理文庫版です。巻末には戸川安宣による解説を収めています。
カーの入り口として選ぶにも、密室づくしの作風をひと巡りしたあとで「趣向を変えた傑作」を味わうにも、ちょうどよい一冊。超自然を封じてなお——いや、封じたからこそ——冴えわたった巨匠の腕前を、ぜひその目で確かめてみてください。
ジョン・ディクスン・カーについて
ジョン・ディクスン・カーは1906年にアメリカのペンシルヴェニア州で生まれ、1977年に亡くなりました。1930年、パリの予審判事アンリ・バンコランが登場する『夜歩く』でデビューし、1932年に英国人女性と結婚して渡英してからは、英国を主な舞台に書き継いでいきます。
ギデオン・フェル博士のシリーズと、カーター・ディクスン名義で書いたヘンリ・メリヴェール卿のシリーズという二つの柱を並行させ、『帽子収集狂事件』『ユダの窓』、シリーズの外に置いた『皇帝のかぎ煙草入れ』などを残しました。
密室をはじめ、起こりえないはずの状況を組み立てては解いてみせる作風から〈不可能犯罪の巨匠〉と呼ばれ、怪奇な雰囲気づくりにも長けた書き手です。1950年に伝記『コナン・ドイル』でアメリカ探偵作家クラブの特別賞を受け、1963年には同クラブの巨匠賞(グランド・マスター)を贈られています。
書誌情報
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