黄金期米国古典 1939
足跡なき殺人。犯人は、
世界記録並みに跳んだのか。
『テニスコートの殺人』ジョン・ディクスン・カー

書評

テニスコートの殺人

雨上がりのコートに残る足跡は一人分のみ――「足跡のない殺人」に挑むフェル博士もの。

テニスコートの殺人 表紙画像
ジョン・ディクスン・カー 東京創元社(創元推理文庫) 原書 1939年 · 邦訳 2014年
目次

雨上がりのクレーコート。その中央で、男が絞殺死体となって発見されます。

柔らかく濡れた土に残る足跡は、被害者自身がコートへ向かったものだけ。雨に洗われて一面まっさらなはずの地面に、犯人が近づいた痕跡がどこにもないのです。

閉ざされた密室でも人里離れた荒野でもない、ごくありふれた屋外で成立してしまう「足跡のない殺人」——不可能犯罪の名手ジョン・ディクスン・カーが、あえて開けた舞台でこの難題に挑んだ一作です。

物語の入り口

物語は、和やかなテニスの午後から始まります。試合のさなかに雷雨が空を割り、プレーは中断される。

人々が雨宿りに散ったあと、上がった空の下、クレーコートの中央付近に男が一人、仰向けに倒れていました。首を絞められています。

問題は、そのまわりの土でした。雨でならされ、柔らかく濡れたコートに残っていたのは、被害者自身が歩いた跡のほかに、たった一組の足跡だけ。

殺された男の婚約者ブレンダが、倒れた男のもとまで行って戻った足跡です。それ以外には、誰の痕跡もありません。

だが、ブレンダは断じて殺していないと言います。ならば犯人は、いったいどうやって被害者に近づき、絞め殺し、足跡ひとつ残さずに立ち去ったのか。

まさか走り幅跳びの世界記録さながらに、コートの外から一気に跳んだとでもいうのでしょうか。あり得ない状況を、あり得ないまま突きつけられて、読者はしばらく宙ぶらりんの心地で立ち尽くすことになります。

手がかりはすべて目の前にあるのに、答えへ通じる道は一本も見えてきません。

この不可能に挑むのが、名探偵ギディオン・フェル博士です。「このトリックはフェル博士にしか解けない」——新訳版がそう掲げるのも、あながち大げさとは思えません。

読者に代わってコートの前に立ち、あり得ないはずのその一点を、博士は少しも慌てず、静かにほどきにかかります。目の前の事実だけを頼りに、筋の通った一本の説明へと道をつけていく。

その落ち着いた手つきこそ、カーが読者に差し出すものにほかなりません。

読みどころ

本書の読みどころは、逃げ場のない開けた屋外で「足跡のない殺人」を成立させてみせた、その舞台設定の妙にあります。 不可能犯罪といえば、外から施錠された密室——閉じた空間が定番です。

ところがカーはここで、あえて逆を行きました。屋根もなく、見晴らしのきくテニスコート。

雨がいったんすべての足跡を消し去り、そのうえで真新しい土が、あとから立ち入った者の一歩一歩を残らず書き留めてしまう。隠れる場所などないその条件を、そっくりそのまま謎の土台に据えたところに、この巨匠の企みの深さがあります。

1939年の作でありながら、いま読んでも少しも古びません。新訳版は『IN★POCKET』2014年文庫翻訳ミステリーベスト10の読者部門で第5位に選ばれました。

発表から七十年以上を経てなお現役の読者を唸らせるという事実が、この一編の底力を静かに物語っています。

こんな人におすすめ

名探偵の鮮やかな推理に身を委ね、「どうやって?」の一点をとことん味わいたい読者には、まっすぐ薦められます。不可能状況のパズルとしての面白さが前面に立つぶん、事件の奥にある人間ドラマや社会の翳りをじっくり読みたい向きには、やや軽く映るかもしれません。

それでも、あり得ないはずの謎が最後に一本の理屈で解きほぐされていく——その瞬間の快感を求めるなら、これほど代表的な作り手が、これほど大胆な題材に挑んだ例は、そうそうないはずです。

作品の背景

カーが1939年に発表したのが、フェル博士ものの本書です。怪奇や超自然の気配を漂わせる作風でも知られる作家ですが、ここではそうした道具立てをあえて排し、雨に洗われた一面のテニスコートという、開けた屋外そのものを謎の核に据えました。

手に取るなら

現在手に取るなら、旧訳題『テニスコートの謎』を改題した創元推理文庫の新訳版です。訳者の三角和代は、同じカーの『帽子収集狂事件』のほか、タートン『イヴリン嬢は七回殺される』などを手がけてきた英米文学翻訳家。

巻末には大矢博子による解説を収めます。ギディオン・フェル博士の登場する作品は数多くありますが、屋外の不可能犯罪という趣向で異彩を放つ本書は、カーという作家の底力を味わう入り口として、格好の一冊と言えるでしょう。

ジョン・ディクスン・カーについて

ジョン・ディクスン・カーは1906年にアメリカのペンシルヴェニア州で生まれ、1977年に亡くなりました。1930年、パリの予審判事アンリ・バンコランが登場する『夜歩く』でデビューし、1932年に英国人女性と結婚して渡英してからは、英国を主な舞台に書き継いでいきます。

ギデオン・フェル博士のシリーズと、カーター・ディクスン名義で書いたヘンリ・メリヴェール卿のシリーズという二つの柱を並行させ、『帽子収集狂事件』『ユダの窓』、シリーズの外に置いた『皇帝のかぎ煙草入れ』などを残しました。

密室をはじめ、起こりえないはずの状況を組み立てては解いてみせる作風から〈不可能犯罪の巨匠〉と呼ばれ、怪奇な雰囲気づくりにも長けた書き手です。1950年に伝記『コナン・ドイル』でアメリカ探偵作家クラブの特別賞を受け、1963年には同クラブの巨匠賞(グランド・マスター)を贈られています。

書誌情報

出版社
東京創元社 / 創元推理文庫
原書刊行年
1939
邦訳刊行年
2014
ISBN-13
9784488118372
系譜
黄金期米国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
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プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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