黄金期国内 1934
神学も占星術も薬学も、
殺人の推理に動員される。
『黒死館殺人事件』小栗虫太郎

書評

黒死館殺人事件

異国様式の城館で起きる連続殺人に、神学から音楽理論まで動員する探偵が挑む。日本探偵小説三大奇書のひとつ。

黒死館殺人事件 表紙画像
小栗虫太郎 河出書房新社(河出文庫)1934年
目次

日本の探偵小説史には「三大奇書」と呼ばれる三作があり、この作品はその一角を占めています。小栗虫太郎『黒死館殺人事件』。

ケルト・ルネサンス様式で建てられた壮大な城館——黒死館で連続殺人が起こり、探偵の法水麟太郎がその謎に挑みます。骨組みだけを取り出せば館を舞台にした謎解きの王道ですが、その骨組みの上に、探偵が動員する知識の山がうずたかく積み上がっていきます。

頁をめくるたびに、事件の話と知識の話が入り混じっていく長編です。

物語の入り口

舞台となる黒死館は、ケルト・ルネサンス様式の城館です。日本の探偵小説でありながら、物語を収める器として選ばれたのは、遠い異国の様式をまとった壮麗な建物でした。

その館の内側で、連続殺人事件が起こります。乗り込んでくるのは探偵・法水麟太郎。

異国の城館、連続殺人、名探偵。筋の骨組みだけを取り出せば、探偵小説の定石どおりの顔ぶれです。

一方で、頁の上の情報量は桁違いです。この探偵が推理に持ち込む知識は、神学、呪術、占星術、数秘術、薬学、法医学、そして中世ヨーロッパの音楽理論にまで及びます。

信仰と秘儀の領域、星と数の学、近代の科学、さらに芸術の理論まで、本来なら互いに縁遠いはずの分野が、一人の探偵の頭のなかでは隣り合っているのです。文体そのものが衒学的で、頁の密度はきわめて高い。

その知識の網の目が、事件のまわりに幾重にも張り渡されていきます。

事件の輪郭より先に、まずこの文章の密度と向き合うことになります。どこまでが事件の話で、どこからが知識の話なのか。

その境目を見きわめるところから、この館での時間が始まります。

読みどころ

読みどころは、膨大な衒学がそのまま推理の論拠として働いている組み立てにあります。

知識の量だけを見れば、この作品は博物誌か百科事典のようにも映ります。ただし、その知識は飾りとして並べられているわけではありません。

探偵の推理の一つひとつが、動員された知識を論拠として組み上げられています。そして事件には解決が与えられ、論理による説明も用意されている。

奇書と呼ばれながら、本格ミステリとしての体裁はきちんと保たれているのです。難解さと謎解きの形式が同じ頁のなかで両立していることが、この作品を単なる怪作で終わらせていません。

もうひとつは、この文体に身を浸す時間そのものです。探偵の口から出る言葉は、事件の説明であると同時に、知識の目録でもあります。

筋だけを急いで追おうとすると、その目録の厚さに押し返される。逆に、一つひとつの術語に立ち止まり、それがどの推理を支えているのかを確かめながら進むと、館の見取り図と知識の見取り図が少しずつ重なって見えてきます。

速く読むことを許さない文章が、そのまま読み手に、探偵と同じ歩幅で考えることを求めてくるのです。

こんな人におすすめ

三大奇書のうち二作を読み終え、最後の一作を残している方にまず向いています。館を舞台にした謎解きを、古典の側からさかのぼって辿りたい方にも。

筋を速く追うことより、知識の迷路に長く留まる時間そのものを楽しめる人のための本です。反対に、軽快な会話と短い章で進む謎解きを求めるなら、この文章の密度は重荷になるかもしれません。

それでも、頁をゆっくりめくる根気さえあれば、知識の迷路の奥には、解決と論理による説明という謎解きの出口がきちんと用意されています。

作品の背景

『黒死館殺人事件』は、雑誌『新青年』の1934(昭和9)年4月号から12月号にかけて連載されました。探偵役の法水は前年1933年の「後光殺人事件」で初めて登場した人物で、この探偵を主役に据えた長編のなかでは、これが最大の規模を持ちます。

夢野久作『ドグラ・マグラ』、中井英夫『虚無への供物』と並ぶ三大奇書の一角です。

小栗虫太郎が1933年7月に「完全犯罪」でデビューしてから9か月後に、この大作の連載が始まりました。黒死館は、13年ほどで終わった小栗虫太郎の短い作家生活の、早い時期に書かれたことになります。

手に取るなら

いま紙の本で手に取るなら、2008年に文庫化された河出文庫版があります。角川文庫からは、デビュー作「完全犯罪」と合わせて収めた『黒死館殺人事件・完全犯罪』も出ており、作家の出発点とこの長編を続けて読めます。

著作権が切れているため、青空文庫でも全文を読むことができます。文体との相性を青空文庫で先に確かめてから、手もとに置く文庫を選ぶという順序も取れます。

黒死館の扉は、いまも三つの入口から開けられるようになっています。

小栗虫太郎について

小栗虫太郎は本名を小栗栄次郎といい、1901年に東京・神田で生まれました。印刷所を営んでいたころに探偵小説に目覚め、1933年、面識のなかった甲賀三郎に原稿を送って推薦を得た「完全犯罪」が『新青年』に載り、デビューします。

掲載予定だった横溝正史の作品が病で書けなくなり、その代わりとして誌面に出たという経緯が残っています。

翌1934年に同誌で発表した『黒死館殺人事件』は、日本の探偵小説の三大奇書の一つに数えられています。名探偵の法水麟太郎が膨大な知識を繰り出す衒学的な作風で知られ、秘境冒険小説の連作『人外魔境』も書きました。

1946年、疎開先の長野県で脳出血のため44歳で亡くなっています。

書誌情報

出版社
河出書房新社 / 河出文庫
刊行年
1934
ISBN-13
9784309409054
系譜
黄金期国内 / 名探偵もの

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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