高級品だった。
地上最後の刑事
半年後、地球には小惑星が衝突し、人類は壊滅する——そう予測された世界で、人はなぜ働き続けるのでしょうか。『地上最後の刑事』は、この巨大な前提をまるごと犯罪捜査の土台に据えた、風変わりな警察小説です。
誰もが投げやりになっていく街に、たったひとり、目の前の死をきちんと調べようとする新人刑事がいる。その頑固さそのものが、物語を前へ押し出していきます。
物語の入り口
物語の舞台は、ニューハンプシャー州コンコード。半年後に小惑星が地球へ衝突し、人類は壊滅すると予測されている世界です。
その予測が街の空気を静かに腐らせていく。仕事を放り出す者、姿を消す者、自ら命を絶つ者。
終末を前にした人々の投げやりな諦めが、日常の隅々にまで染み込んでいます。誰もが、残された時間の使い道を持て余している。
もう先がないのだから、規則も義務も、守る意味などないではないか——そんな空気が、街全体をゆっくりと覆っていくのです。社会が音を立てずに崩れていく、その静かな手触りが、まず読者の肌に迫ってきます。
そんなある日、ファストフード店のトイレで男性の死体が見つかります。首を吊った縊死体で、誰の目にも、未来を悲観した末の自殺と映る。
半年後に世界が終わるのなら、自ら死を選ぶ者がいたところで、もはや驚くには値しない——それがこの世界の共通了解です。事件はそこで閉じてもよかった。
ところが、現場に立った新人刑事ハンク・パレスだけは、腑に落ちないものを感じます。死者の衣類のなかで、首を吊ったそのベルトだけが、妙に上等な高級品だったのです。
ささやかな違和感です。けれどパレスはそこから手を離せない。
他殺ではないか、と疑い、地道な聞き込みと調べを重ねていきます。同僚たちの反応は冷ややかです。
世界がもうすぐ消えてなくなるというのに、なぜたった一人の死にそこまでこだわるのか。呆れられ、諭され、それでも彼は職務を淡々とまっとうしようとする。
その律儀さは、滑稽にも、ひどく尊いものにも映ります。すべてが投げ出されていく世界で、あえて手続きを踏み、あえて理屈を通そうとすること。
それは無意味なのか、それとも人が人であることの最後の証なのか。その姿を追ううちに、読者もまた「世界が終わるのに、なぜ捜査を続けるのか」という問いの前に立たされます。
答えの出ないその問いこそが、本書の背骨です。
読みどころ
この作品の妙味は、終末という設定が飾りではなく、謎解きの心臓そのものになっている点にあります。 半年後に全員が死ぬと決まった世界では、絶望による自殺がありふれた出来事になる。
つまり「自殺と他殺の見分けがつかない世界」が、設定によって生み出されてしまうのです。そこに他殺の疑いを持ち込むこと自体が、途方もなく困難で、途方もなく孤独な行為になる。
特殊な状況が捜査の難度と主人公の動機を同時に生成する——設定を効かせた本格ミステリの、ひとつの到達点と言っていい作りです。奇抜な世界観のためのお話ではなく、その世界観だからこそ成立する謎解きが、ここにはあります。
こんな人におすすめ
相性の話をしておくと、密室や暗号のような、目に見える仕掛けの曲芸を期待して読むと、少し肩透かしを食うかもしれません。本書が差し出すのは華やかなトリックの妙技よりも、崩れゆく世界の手触りと、そのなかで一人だけ理屈を通そうとする刑事の内面です。
逆に、風変わりな前提が物語の全体をどう変えていくのかを味わいたい読者、静かな終末の空気に浸りながら実直な捜査の歩みに付き合いたい読者には、忘れがたい一冊になるはずです。近未来SFのような設定を入り口にしながら、中身はあくまで骨太の警察小説。
この二つの顔がひとつの物語に無理なく同居しているところに惹かれる人なら、なおのこと相性がいいでしょう。派手さより、状況が生む切実さで読ませるタイプの作品と言えます。
作品の背景
『地上最後の刑事』は2012年に原著が刊行され、翌2013年に早川書房から邦訳が出た、ハヤカワ・ミステリ文庫の一冊です。アメリカ探偵作家クラブ(MWA)最優秀ペイパーバック賞を受賞しており、ここは見落とせないところ。
近未来を舞台にした奇想の物語でありながら、評価されたのはあくまで謎解きミステリとしての骨格でした。世界が終わるという派手な設定は、あくまで捜査を成立させるための土台として据えられている。
奇をてらった味付けではなく、ミステリの構造そのものに終末が組み込まれているのです。そして本書は三部作の第一巻にあたります。
思いつきの一発芸で終わらせず、シリーズとして構想された最初の扉、という位置づけです。この着想がどこまで持ちこたえるのか——その第一歩を、まずここで確かめることになります。
手に取るなら
入手はハヤカワ・ミステリ文庫で。設定ものの奇想と、地に足のついた警察捜査の手続きが同居する感触は、読み終えたあとも長く尾を引きます。
三部作の第一巻という入り口として、その世界へ踏み込むのにふさわしい一冊です。
ベン・H・ウィンタースについて
ベン・H・ウィンタースは1976年、アメリカのワシントンD.C.生まれの作家です。セントルイスのワシントン大学を卒業後、劇作家や児童書の書き手として出発し、2009年に古典小説を下敷きにしたパロディ『Sense and Sensibility and Sea Monsters』がニューヨーク・タイムズのベストセラーになりました。
ミステリでは、小惑星衝突を目前にした世界を描く『地上最後の刑事』に始まる三部作で名を上げ、第1作がエドガー賞、第2作がフィリップ・K・ディック賞を受けています。その後も、奴隷制が続く架空のアメリカを舞台にした『Underground Airlines』(2016)でサイドワイズ賞を受け、邦訳には『その少年は語れない』もあります。
近年はテレビドラマの制作にも携わっています。
書誌情報
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