ミステリーとしての読みどころ
一人の学者が、ある日を境に消息を絶ちます。生死のわからぬまま歳月だけが流れ、やがて各地で人間の骨が拾い上げられていく——『オシリスの眼』は、その不穏な謎を、法医学の目でひとつずつ照らし出していく英国探偵小説の古典です。
証拠を集め、そこから確かに言えることだけを慎重に積み上げていく。その静かな手つきそのものが、この長編のいちばんの見どころになっています。
著者について
作者のR・オースティン・フリーマンは、推理小説に本格的な科学捜査を持ち込んだ先駆者として名を残す書き手です。彼が生んだ探偵ジョン・ソーンダイク博士は、法医学者にして弁護士という二つの顔を併せ持つ人物。
医学と法律の双方に通じたこの博士が、勘やひらめきではなく、あくまで検証にたえる証拠だけを頼りに事件へ分け入っていくところに、フリーマンの新しさがありました。事件の真相は、閃きによって天から降ってくるのではなく、地道な観察と論証の積み重ねから引き出される。
今日の私たちが法医学ものと呼んで親しんでいる語り口の、ずいぶん早い水源のひとつがここにあります。本作はそのソーンダイクものの長編を代表する一作で、一九一一年に発表された古典です。
日本でも古くから評価は高く、江戸川乱歩が第一次大戦前のベストテンの一つに挙げたことでも知られています。
物語の発端は、一人のエジプト学者の失踪です。ベリンガムという名のその学者が、不可解な状況で忽然と姿を消してしまう。
事件めいた気配だけをあとに残して、当人はどこへともなく去ってしまうのです。生きているのか、それともすでに世を去っているのか。
答えの手がかりが見えないまま、二年という歳月が過ぎていきます。古代エジプトの遺物に半生を捧げた学者が消えたという発端そのものが、どこか謎めいた翳りを物語に落としています。
やがて、この宙ぶらりんの失踪が、思わぬかたちで周囲を揺らしはじめます。生死の定まらない人物をめぐって、相続の問題が持ち上がるのです。
ある人が生きているのか死んでいるのか——本来なら真っ先に片のつくはずのその一点が定まらないために、財産の行方をめぐる話が宙に浮いたまま動き出す。生死という、日常ではまず疑いようのない事実が確定できない。
その一点の欠落が、静かに、しかし確実に人々の暮らしを歪めていきます。そんな折も折、各地でばらばらになった人間の骨が見つかりはじめます。
この骨は、いったい誰のものなのか。姿を消したベリンガムのなれの果てなのか、それともまったくの別人か。
骨という物言わぬ証拠だけが次々と現れ、肝心の答えはいっこうに姿を見せません。失踪、相続、そして正体不明の人骨。
ばらばらに見えるこれらの出来事が、どこかで一本の線につながっているのではないか——その予感だけが、読者のなかでじわじわと膨らんでいきます。そこへ、証拠を集め、緻密な論証を積み重ねて真相へ迫るソーンダイク博士が乗り出してくるのです。
読みどころ
この作品の核にあるのは、答えそのものよりも、答えへとにじり寄っていく過程の手ざわりです。 読者は、博士の傍らで一片ずつ証拠を検分していくような位置に立たされます。
この骨から何が言えて、何はまだ言えないのか。目の前の事実がどこまで語り、どこから先は推測にすぎないのか。
積み上げられた事実の上にだけ推論を重ねていくその足取りを追ううちに、断片でしかなかったものが少しずつ形を結んでいきます。派手な急展開に運ばれる快感とは別種の、地に足のついた面白さがここにはあります。
手がかりは物語のなかに置かれ、それを読み解く筋道も律儀に開かれている。推理を追いかける愉しみを、正面から味わわせてくれる作りです。
科学捜査が探偵小説にまだ物珍しかった時代に、証拠と論理だけで一編を成立させてみせた——その歴史的な意味を差し引いても、謎解きとして今なお十分に読ませる骨格を備えています。
読み手を選ぶところもあります。証拠を一つずつ吟味し、論証の階段をゆっくり上っていく味わいを好む読者には、これ以上ないほど手ごたえのある一冊でしょう。
名探偵の推理に静かに耳を澄ますような読書を好む人にも、まっすぐ届くはずです。反対に、目まぐるしい展開や意表を突く速さを求めて開くと、この着実な歩みは少しもどかしく映るかもしれません。
けれど、その落ち着いた足取りこそが本作の値打ちであり、腰を据えて謎と向き合う時間を惜しまない読者にこそ、静かな充実を返してくれる作りになっています。派手さで押すのではなく、証拠と論理の確かさで読ませるという古典の美点が、ここには過不足なく詰まっています。
手に取るなら
現在手に取るなら、ちくま文庫(筑摩書房)の完訳が確かです。長く名のみ知られてきた古典の、初の完訳という位置づけでもあります。
科学捜査ものの源流にさかのぼり、その最初期にどれほど成熟した達成があったのかを確かめる意味でも、法医学者探偵ソーンダイクの代表作として、まっすぐに薦められる一冊です。