ミステリーとしての読みどころ
橋を渡りはじめた一台の馬車が、渡りきる前に忽然と消えてしまう。そんな「ありえない状況」ばかりを集めた、不可能犯罪づくしの連作短編集です。
しかも一編ごとに、名探偵が理屈でその不可能をきちんと畳んでみせる。本書『サム・ホーソーンの事件簿I』は、その謎解きの醍醐味を十三回にわたって味わえる、シリーズの第一集にあたります。
著者について
作者のエドワード・D・ホックは、生涯に九百編を超える短編を書いた、短編ミステリの第一人者です。1930年にニューヨーク州で生まれ、1955年に雑誌へ発表した「死者の村」でデビューしました。
以後、半世紀以上にわたって短編という形式にこだわり抜いた人で、サイモン・アーク、怪盗ニック・ヴェルヴェット、レオポルド警部——生み出した名物キャラクターは数多く、そのなかでも屈指の人気を誇るのが、本書の主役サム・ホーソーン医師です。多彩な探偵を操って謎解きの醍醐味を届けつづけた仕事ぶりは本国でも高く評価され、2001年にはアメリカ探偵作家クラブの生涯功労賞に輝きました。
ジャンルの歴史に名を刻んだ書き手が、腰を据えて育てあげたシリーズ。それがこのサム・ホーソーンものです。
物語の舞台は、1920年代から30年代にかけてのアメリカ東部。ニューイングランドの片隅にある、ノースモントという小さな田舎町です。
ここへ赴任してきた青年医師サム・ホーソーンが、診療のかたわら、身のまわりで起こる奇怪な事件に巻き込まれていきます。彼が出くわすのは、どれも常識では説明のつかない謎ばかり。
屋根のかかった橋に入っていったはずの馬車が、反対側から出てこないまま消え失せる。行き止まりの廊下へ逃げ込んだ強盗が、追う者の目の前で姿を消す。
誰も近づけるはずのない空中で、スタントマンが絞殺される。ページをめくるたびに、「そんなことが起こるはずがない」という状況が次々と立ち上がってくるのです。
本書に収められているのは、そんなサム・ホーソーンものの初期作品十二編。「有蓋橋の謎」「水車小屋の謎」「ロブスター小屋の謎」「呪われた野外音楽堂の謎」「乗務員車の謎」「赤い校舎の謎」「そびえ立つ尖塔の謎」「十六号独房の謎」「古い田舎宿の謎」「投票ブースの謎」「農産物祭りの謎」「古い樫の木の謎」と、いずれも土地の風物を冠した謎が並びます。
さらに特別付録として、著者の代表作のひとつに数えられる「長い墜落」を収録。こちらは不可解な墜死事件を扱う一編で、全十三編を通して不可能犯罪だけがぎっしり詰まった、ぜいたくな一冊になっています。
小さな町という舞台も、この趣向によく効いています。顔なじみばかりの閉じた共同体で、「起こるはずのないこと」だけが起こる。
その落差が一編ごとに宙ぶらりんな居心地の悪さを生み、読者はサム医師とともに、目の前の不可能をどう畳めばいいのか途方に暮れることになります。
読みどころ
この短編集の芯にあるのは、「ありえない」で驚かせて終わらせない誠実さです。 不可能状況の突飛さだけなら、奇術のタネを見せられているような読み味に流れてしまいがちです。
ところがホックは、読者に示すべき手がかりをきちんと並べたうえで、最後に理詰めの解決を差し出します。不可能への驚きと、フェアプレイの納得。
その二つを一編のうちに両立させているからこそ、読み終えるたびに膝を打てるのです。
連作という形式も、この趣向とよく噛み合っています。同じ町、同じ医師のもとへ、手を替え品を替え不可能が舞い込んでくる。
一編ごとに完結しながら、読み進めるほどにノースモントという土地とサム医師の人柄が馴染んでいく感触があります。刊行当時の評価も高く、『2001本格ミステリー・ベスト10』海外部門で第二位、『週刊文春』2000年傑作ミステリーベスト10でも第三位に選ばれました。
作家の恩田陸も「不可能犯罪の不可能としか思えぬ連続ワザに驚愕!」と、その物量に舌を巻いています。
ひとつの長い物語にじっくり浸りたいというより、切れ味のいい謎解きを何度も味わいたい——そんな気分の読者にこそ向いています。一編が短いぶん、通勤の合間や就寝前のひとときに一話ずつ摘まむような読み方とも相性がいいはず。
逆に、濃密な人間ドラマや長編ならではのうねりを求めて開くと、あっさりした後味に物足りなさを覚えるかもしれません。ここで供されるのは、あくまで「不可能をどう解くか」という一点に賭けた、純度の高い謎解きの連打だからです。
手に取るなら
邦訳は創元推理文庫に収められています。『サム・ホーソーンの事件簿』はこの第一集から続いていくシリーズで、気に入れば先の巻へと読み継いでいける愉しみもありますが、まずは十三の不可能から始めるのが順当な入り口です。
不可能犯罪という趣向を、これほど惜しみなく浴びられる短編集はそう多くありません。奇術を眺めるだけでは飽き足らず、そのタネを理屈で明かされてこそ膝を打てるという読者なら、迷わず手に取ってよい一冊です。