ミステリーとしての読みどころ
ロンドンの時計師の家、その天窓の下にある一室で、完全殺人の計画が最後の詰めに入っていました。表のドアはわざと開け放たれています。
死の罠へおびき寄せられた犠牲者が、ベルを押す。部屋の中では、男がピストルを構えて待ち構えている。
ところが、扉を開けて入って来た男は、相手が撃つよりも先に、すでに倒れていたのです。『死時計』(1935年)は、この一場面から幕を開けます。
殺人の現場に、読者はいちばん近い席から立ち会わされる。それでいて、何ひとつわからない。
著者について
「不可能犯罪の巨匠」——ジョン・ディクスン・カーの名には、長らくこの異名が寄り添ってきました。そのカーが生んだ代表的な探偵が、ギデオン・フェル博士。
本書は、フェル博士が登場するシリーズの一編として1935年に世に出た作品で、初期のカーを代表する一作として位置づけられてきました。
その評価を支えているのは、なによりも犯罪の設計そのものです。発表当時の評には「これほど手の込んだ犯罪はなかった」という一節まで残っています。
手が込んでいる、というのはミステリでは半ば褒め言葉の定型句ですが、この作品に関しては、その定型句が実感を伴って響く。日本語で読めるようになったのは1962年、創元推理文庫からでした。
以来ずっと、黄金期の探偵小説の一冊として読み継がれています。
物語の入り口
物語は、殺人が起きる前の部屋から始まります。舞台はロンドンの時計師の家。
その天窓の下にある部屋で、ひとつの完全殺人の計画が、仕上げの段階に入っていました。表のドアが開け放たれているのは、客を迎え入れるためではありません。
獲物を招き寄せるためです。段取りはすっかり整っている。
あとは、罠のほうへ自分から歩いてくる者を待つばかり。やがて、死の罠へおびき寄せられた犠牲者が、ベルを押します。
その音が家に響く。部屋の内側では、男がピストルを手にしたまま、息を殺して扉を見つめている——。
ここを読まされる読者は、いささか奇妙な場所に立たされます。事件を後から検分する探偵の側ではなく、これから人が殺されようとしている部屋の内側へ、先に通されてしまうのです。
何が起きるのかは、もうわかっている。手順も、待ち構える男の居場所も、こちらには見えている。
あとは扉が開くのを待つだけ。そのはずでした。
ところが、扉を開けて入って来た男は、相手がピストルを撃つより前に、すでに倒れているのです。
倒れた男の首には、時計の針が突き立てられていました。命を奪ったのは、その一撃です。
用意されていたピストルは、ついに撃たれることがない。そして遺体の身元が知れたとき、事件はいっそう厄介な相を帯びます。
あろうことか被害者は、別の殺人事件を追ってこの家までやって来た刑事だったのです。天窓の下のこの一室で、いったい何が起きたのか。
目の前で起きたはずの出来事が、確かめようとするほど手からこぼれ落ちていく。その手応えのなさを引き受けて、おなじみのフェル博士が登場します。
対するのは、陰で微笑をもらす冷血な真犯人。物語は、この一対一の対決へと絞り込まれていきます。
読みどころ
読みどころは、犯罪の緻密さが、そのまま謎の手強さに直結しているところです。 犯行の場面を誰より近くで見せられているのに、読者の手のうちには何も残らない。
むしろ、見てしまった分だけ足を取られる。冒頭で与えられた情報が、進めば進むほど収まりの悪い形に見えてくる、あの落ち着かない感触。
カーがのちに「不可能犯罪の巨匠」と呼ばれていく、その足取りのごく早い段階に、これほど徹底して組み上げられた一作が置かれていることには、素直に唸らされます。
そしてもうひとつ、この作品には黄金期らしい濃密な雰囲気があります。時計師の家。
天窓の下の部屋。開け放たれた扉。
凶器となった時計の針。題名の「死時計」は、時計にまつわる古い言い回しを踏まえたもので、その一語が舞台の道具立てをまとめて引き受けています。
事件の輪郭が見えてくるより先に、まず家そのものの不吉な気配にからめとられる。推理の決着を待つあいだの、あの宙吊りの時間ごと味わえるのが、この時代の探偵小説の贅沢なところでしょう。
精密に組み上げられた計画を、名探偵が一本ずつ解きほぐしていく——そういう古典的な謎解きを求める読者には、迷わず薦められる一冊です。舞台装置の隅々まで黄金期の薫りを吸い込むように読みたい向きにも。
一方で、現代のサスペンスのような疾走感や、登場人物の心理を深く掘り下げる筆致を期待して開くと、この密度は少々重たく感じられるかもしれません。凝りに凝った犯罪の設計図を、腰を据えて眺める。
そういう気分のときにこそ、本書は最良の相手になってくれます。
手に取るなら
手に取るなら創元推理文庫で。1962年の邦訳以来、長く読み継がれてきた版です。
ギデオン・フェル博士はカーが生み出した代表的な名探偵であり、本書はそのシリーズの一編。初期のカーを代表する作品と目されているだけに、フェル博士ものへの入り口としても、カーという作家の骨格を確かめる一冊としても、申し分のない手応えがあります。
ロンドンの時計師の家で起きた、たったひとつの死。その一点にこれほどの手数が注ぎ込まれているという事実そのものが、この作家の凄みを教えてくれます。