ミステリーとしての読みどころ
夕食を終えた邸宅の主が、ふと席を立ったきり戻らない。翌朝その人は、屋敷にほど近い河のほとりで、冷たい遺体となって見つかります。
『ポンスン事件』は、この一つの死を起点に、崩しようのないアリバイと、それをあきらめずに検証しつづける捜査とがせめぎ合う、黄金期英国の本格探偵小説です。派手な仕掛けで読者を驚かせる物語ではありません。
事実を一つずつ積み上げ、真相へじりじりとにじり寄っていく——その地道な手つきにこそ、本作のたしかな手応えがあります。
著者について
作者のF・W・クロフツは、1879年、アイルランドのダブリンに生まれました。もとは鉄道技師という、探偵小説とはいかにも縁の遠い経歴の持ち主です。
転機になったのは、皮肉にも病でした。長い療養を強いられたクロフツが、その退屈をまぎらわすように構想したのが、処女作『樽』だったといいます。
1920年に世へ出たこの一作は好評を博し、彼を作家の道へと押し出しました。翌年に続いたのが、本作『ポンスン事件』です。
『製材所の秘密』『フローテ公園の殺人』と並ぶ初期作の一つで、作家としては第二長編にあたります。のちにクロフツは、第5作『フレンチ警部最大の事件』で生涯の相棒となる名探偵フレンチ警部を世に送り出しますが、本作はその登場を前にした、いわばフレンチ前夜の一編なのです。
事件の発端は、いたって静かです。夕食のあとに姿を消した資産家、ポンスン卿。
翌日、その遺体が邸宅にほど近い河で見つかったとき、まわりの誰もが、それを不運な事故として受け止めました。水辺での思いがけない転落——痛ましいけれども、どこか理解のしやすい死です。
ところが、この見立てはしだいに落ち着きを失っていきます。関係者に丁寧に当たっていくほど、死のまわりには割り切れない影がにじみ、はたして単なる不幸で片づけてよいのか、という疑いがふくらんでいくのです。
そこで乗り出してくるのが、スコットランドヤードのタナー警部です。彼は、事故とも殺人ともつかないこの一件を、感情ではなく事実で見極めようとします。
関係者の一人ひとりに当たり、その言葉を裏づけと突き合わせ、あの夜に誰がどこにいたのかを、根気よく洗い直していく。捜査が進むにつれ、容疑の目はやがて三人の人物へと絞られていきます。
ところが——ここが本作の意地の悪いところなのですが——その三人が三人とも、揺らぎようのない堅牢なアリバイに守られているのでした。
こうして物語は、どこにも突破口の見当たらない袋小路から動きはじめます。犯人がいるのなら、この誰かはたしかに嘘をついているはずだ。
けれど彼らのアリバイは、どれも岩のように動かない。この矛盾を、いったいどこから解きほぐせばよいのか。
タナー警部が容疑者たちのアリバイに一つずつ挑んでいく過程を、読者は捜査本部の片隅にでも腰かけているかのように、彼の思考へ寄り添いながら追いかけていくことになります。
読みどころ
この作品の背骨は、なんといってもアリバイ崩しの妙技にあります。 「あの時刻、あの場所にいたはずがない」という証言の壁を、タナー警部はどこから突き崩していくのか。
時刻のわずかな食い違いや、証言のかすかなほころびを、一つずつ根気強く検証していくその手つきは、のちに「アリバイ崩しの名手」とうたわれるクロフツの真骨頂そのものです。しかも事件は、後半にいたって二転三転し、読者を翻弄します。
序盤の静けさからは思いもよらない場所へと運ばれていく——その手ごたえこそ、長く読み継がれてきた本作の醍醐味でしょう。作家の山田風太郎が「参った! この凄じいばかりの克明さには確かに参った」と舌を巻いたのも、この一分の隙もない筆の運びゆえです。
あわせて見のがせないのが、のちのフレンチ警部を思わせる、執念深く緻密な捜査官としてのタナーの造形です。地道な事実の積み重ねで真相へ迫るというクロフツの代名詞ともいえる探偵像が、第二長編の時点で早くも輪郭を結んでいる。
一人の作家が、自分にしか書けない型を掘り当てていく瞬間に立ち会える。その意味でも、本作は味わいの深い一冊です。
息もつかせぬ展開や、鮮やかなどんでん返しの連打を期待して開くと、本作の歩みはいくぶん地味に映るかもしれません。ここにあるのは、事実を一つずつ確かめ、論理の網を少しずつ狭めていく、静かで粘り強い捜査の面白さだからです。
けれど裏を返せば、探偵と同じ机に向かい、証言のほころびや時間の食い違いをともに吟味していく——そんな知的な作業そのものを愉しめる読者にとって、これほど噛みごたえのある一冊もそうそうありません。地道さは欠点ではなく、そのまま本作の値打ちなのです。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の井上勇訳がよいでしょう。長らく完訳の待たれていた本作を、本邦初の完訳版として読めるようにした一冊で、訳者の井上勇は、東京外国語学校に学んだ翻訳家です。
クロフツという作家の出発点をたしかめ、そこから緻密なフレンチ警部ものへと読み継いでいくうえでも、格好の入り口になってくれるはずです。