何かに怯えていた。
逃げる幻
スコットランドの荒野で起きた少年消失と密室殺人に、ウィリング博士が挑む不可能犯罪もの。
見晴らしのきく荒野の真ん中で、一人の少年が姿を消します。隠れる木立もなく、身を伏せる窪みもない、空と草だけが果てまで続く場所から、こつぜんと。
確かにそこにいたはずなのに、行方だけがどこにもない。この不可解な一点から、『逃げる幻』の謎は静かに動きはじめます。
物語の入り口
舞台はスコットランド、ハイランド地方。第二次大戦の影が世界に落ちていた時期のことです。
この北の土地を訪れたアメリカ軍人ダンバー大尉が、地元の貴族ネス卿の娘から一風変わった話を聞かされるところから、物語は静かに動き出します。家出を繰り返す一人の少年が、開けた荒野――ムア――の真ん中から、こつぜんと姿を消したというのです。
見通しのきく荒野は、本来なら人が身を隠しようのない場所です。遮る木立もなく、身を沈める窪地もなく、逃げ込む物陰もない。
見る者の視界に、その姿はまるごとさらされていたはずなのです。だからこそ、そこから人が消えたという話には、見慣れた風景の裏地がふいにめくれるような薄気味悪さがつきまといます。
土地に伝わる眉唾な噂として聞き流すこともできたはずのダンバーですが、その夜、彼はくだんの少年に偶然行き合うことになります。そして気づくのです――この子どもが、何かを異様に恐れていることに。
問いはここで一つ増えます。少年はなぜ、隠れようのない場所から消えたのか。
そして、いったい何にこれほど怯えているのか。答えの見えない北の夜へと、読者はダンバーの肩越しから連れ出されていきます。
荒涼としたムアの広がりと、そこに身を寄せて暮らす人々の遠い距離感が、この土地でしか成り立たない謎の下地を静かにこしらえていきます。
やがて二日後、事態は取り返しのつかない方へ転がります。少年の家庭教師が、殺されるのです。
穏やかならぬ噂話は、ここで紛れもない現実の犯罪へと姿を変えます。開けた荒野からの人間消失と、閉ざされた状況での殺人。
性質の異なる二つの不可能が、ひとつの土地で相次いで立ち上がる。ここにいたって、はるばるアメリカから来合わせた精神科医ウィリング博士が、この絡み合った謎の前に立つことになります。
読みどころ
本作の贅沢さは、性質の異なる二つの不可能犯罪が、一つの物語のなかで同時に走っているところにあります。 人が消えるはずのない場所から人が消え、閉ざされた状況で人が命を落とす。
ミステリはそのどちらか一方でも一冊を支えられるだけの大きな謎ですが、本作はそれを二枚重ねにして差し出してきます。しかも解き手が、人の心の動きを専門とする精神科医であること。
証拠を並べ替えるだけでなく、人はなぜそう振る舞うのかという角度から光を当てられるのが、ウィリング博士という探偵の持ち味です。事件を成り立たせているのが人の心である以上、その心を専門に見つめる探偵ほど、頼もしい案内役はいません。
評価も折り紙つきです。本邦初訳での登場でありながら、『2015本格ミステリ・ベスト10』の海外ランキングで堂々の第1位。
『このミステリーがすごい!2015年版』『ミステリが読みたい!2015年版』をはじめ、その年の主要な翻訳ミステリの順位を軒並みにぎわせました。1945年に書かれた一編が、長らく訳されずにきた末の初お目見えでこれだけの支持を集めたという事実そのものが、古びない作りのたしかな証しと言っていいでしょう。
こんな人におすすめ
名探偵の推理にゆったりと身をあずけ、緻密に組まれた謎がほどけていく手つきを味わいたい読者には、迷わず薦められる一冊です。荒野の不可解、少年の怯え、そして殺人と、読み手を引き込む仕掛けが惜しみなく並んでいます。
反対に、派手な追跡劇や銃撃といった外向きの興奮を求めて開くと、この物語の静かな張りつめ方は少し肌に合わないかもしれません。急がずに読み進め、丁寧に置かれた手がかりへ付き合う時間を用意できる夜にこそ、真価が伝わってくるはずです。
作品の背景
『逃げる幻』は、ヘレン・マクロイが生んだ精神科医ベイジル・ウィリング博士が謎に挑む一編にあたります。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の駒月雅子訳。この作品を日本で初めて読めるようにした版で、巻末には酒井貞道による解説が添えられています。
マクロイには本作のほかにも『暗い鏡の中に』『幽霊の2/3』『殺す者と殺される者』、短編集『歌うダイアモンド』といった代表作が知られており、この一冊が肌に合えば、腰を据えて追いかけたい作家がまた一人増えることになります。黄金期アメリカ本格の奥行きを知るうえで、長く埋もれていたのが不思議なほど、確かな手ごたえの謎解きです。
ヘレン・マクロイについて
ヘレン・マクロイ(1904〜1994)は、ニューヨーク生まれのアメリカの作家です。1923年にフランスへ渡ってソルボンヌ大学に学び、その後も通信社の仕事や美術評論で筆をとりながら、1932年に帰国するまでヨーロッパで過ごしました。
1938年、長編『死の舞踏』でデビューし、同作で精神科医ベイジル・ウィリング博士を探偵役として登場させます。人の心の動きを手がかりに事件を読み解くこの博士は、以後十三作の長編で活躍しました。
ウィリングものと並んで、博士の登場しないノンシリーズの作品も手がけています。1946年には作家ブレット・ハリデイと結婚しました(のちに離婚)。
1950年には女性として初めてアメリカ探偵作家クラブ(MWA)の会長を務め、1990年には同クラブのグランドマスター賞を受けています。
書誌情報
ヘレン・マクロイをもっと読む
全作品一覧へ →似た読み味を、他の作家で
気分タグ・系譜の重なりから自動抽出。★は管理人が実読して太鼓判を押した本