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REVIEW · 書評
N° 298 · 2026-07-13
二人の妻をもつ男 表紙画像
黄金期米国古典

二人の妻をもつ男

パトリック・クェンティン / 東京創元社(創元推理文庫)
" 一つの嘘が泥沼を呼ぶ、クェンティン後期の心理サスペンス
#黄金期の薫り#心理サスペンス
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📝 書評 世評・資料をもとに、当サイトの選書基準で構成した書評です ✓ 結末・犯人・トリックの種類には触れていません
review notes

ミステリーとしての読みどころ

満ち足りた暮らしには、翳りが忍び込む余地などないように見えます。出版社の重役として社長の娘を妻に迎えたビル・ハーディングも、きっとそう信じていた一人でしょう。

ところが、ある晩の街角での思いがけない再会が、その静かな幸福に、じわりと暗い影を落としていく。『二人の妻をもつ男』は、何ひとつ欠けたところのない日常が音もなく崩れ、一人の男が殺人事件のただ中へと足を踏み入れていく心理サスペンスです。

著者について

著者のパトリック・クェンティンは、一人の作家の名前ではありません。リチャード・ウィルスン・ウェッブとヒュー・キャリンガム・ウィーラー——二人の書き手が組んだときにだけ用いた、合作のペンネームです。

ともに英国の生まれで、ウェッブは1901年、ウィーラーは1912年の生まれ。『迷走パズル』『俳優パズル』『人形パズル』と続く「パズル」ものの作者として名を知られ、緻密に組まれたプロットで読者を結末まで引っぱっていく手腕には、終生にわたって定評がありました。

本作『二人の妻をもつ男』が原書として世に出たのは1955年、彼らの後期にあたる一編。発表されるや英米両国の批評家がこぞって絶賛し、「新しき古典」とまで呼ばれました。

二人がかりで練り上げた語りが、円熟の域でひとつに結晶した代表作といえます。

物語の幕が上がるとき、ビル・ハーディングの人生には、文句のつけようがありません。勤め先はC・J出版社、そこで高級社員として重んじられ、しかも社長の娘を妻に迎えている。

恵まれた地位と、満ち足りた家庭。そのどちらもが、当たり前のように彼の手のなかにありました。

都会で成功をおさめた男の、絵に描いたような幸福です。仕事は順調、家庭は円満、将来を曇らせるものは見当たらない——外から眺めるかぎり、ビルの暮らしに欠けているものなど何ひとつありません。

少なくとも、その晩までは。

きっかけは、ほんの偶然でした。ある晩、ビルは街角で、とうに別れたはずの前妻アンジェリカと、思いがけず顔を合わせてしまいます。

美しいアンジェリカとの再会は、それ自体をとってみれば、一瞬の出来事にすぎません。すれ違って別れれば、それきりで終わっていたかもしれない。

その一瞬に、これから彼を待ち受ける思いがけない波乱の芽が潜んでいたとは、当のビルはまだ知る由もありません。けれど、この夜を境にして、整いきっていたビルの生活へ、少しずつ暗い影が差し込んでいきます。

穏やかだった日々の裏側で、歯車が音もなくずれ始める。やがて彼の生活は激変し、ビルは自分でも予想だにしなかった殺人事件のただ中へと引きずり込まれていきます。

読者は、幸福の絶頂にいるはずの男の足もとが、当人よりも一歩早く危うくなっていくのを、はらはらしながら見つめることになります。ここまでが、物語がそっと差し出す入り口です。

読みどころ

読みどころは、追い詰められていく一人の男の内面を、謎解きの骨格の上に濃密に描き出す筆致にあります。 クェンティンという書き手たちが得意としたのは、本来なら誠実であるはずの人間が、思いがけない一点から足を取られ、抜き差しならない場所まで追い込まれていく——その心の揺れを、密度高く追いかけることでした。

事件の謎に向かう興味と、追い詰められていく男の息づかいとが、分かちがたく絡み合っている。ですからこの一編は、犯人当ての鮮やかさだけを楽しむ作品ではありません。

むしろ、平穏だった足場がどこでどう崩れていくのかを、当人とほとんど並走するようにして見届けていく。その一歩ごとに、逃げ道がひとつずつ塞がれていくような息苦しさが募ります。

黄金期アメリカのミステリらしい端正な骨格と、人物の心理を掘り下げる濃やかさ。その二つが深いところで溶け合っているのです。

こんな人におすすめ

相性で言えば、手がかりを一つずつ拾い上げて犯人を割り出す純粋なパズル型の謎解きだけを求める読者には、少し毛色が違って映るかもしれません。本作が重んじるのは、論理の精密さそのものよりも、じわじわと追い込まれていく人間の心理の揺れ。

逆に、平凡だった日常が足もとから崩れていくサスペンスが好きな読者、追い詰められた人物の内側に寄り添って読むのを楽しめる読者には、まっすぐ届く一冊でしょう。善良な誰かに寄り添って安心したい気分のときよりも、人がじわじわと追い込まれていく過程を静かに見つめたい気分のときにこそ、深く応えてくれるはずです。

端正な謎解きの枠組みと、濃密な心理描写。その両輪を一度に味わいたい人にこそ、迷わず薦めたくなります。

手に取るなら

入手は東京創元社の創元推理文庫版で、初訳は1960年。半世紀以上を経てなお、「新しき古典」の呼び名に恥じない読み応えを保っています。

パトリック・クェンティンの筆にもっと触れたくなったら、『迷走パズル』『俳優パズル』『人形パズル』と連なる「パズル」ものへ進んでみるのもいいでしょう。たった一度の偶然の再会が、一人の男の人生をどこまで変えてしまうのか。

その顛末を、ビル・ハーディングのすぐ隣で見届けてみてください。

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書誌情報

出版社
東京創元社 / 創元推理文庫
原書刊行年
1955
邦訳刊行年
1960
ISBN-13
9784488147013
系譜
黄金期米国古典