現代英国 1993
母と妹を刻んだ罪で服役。
その有罪が、揺らぎだす。
『女彫刻家』ミネット・ウォルターズ

書評

女彫刻家

殺人犯とされた女を取材するうち、その有罪が揺らいでいく心理サスペンス。

女彫刻家 表紙画像
ミネット・ウォルターズ 東京創元社(創元推理文庫) 原書 1993年 · 邦訳 1995年
目次

「本当に彼女の仕業なのか」——この一行の問いを胸に抱えたまま、読者は物語の奥へと連れていかれます。母と妹を手にかけた罪ですでに服役している女が主役でありながら、その事件はいっこうに決着していない。

目の前にいる人間そのものが、底の知れない謎になっていく小説。そんな居心地の悪い独特の緊張が、早い段落から静かに立ちのぼってくる、英国生まれの心理サスペンスの名品です。

物語の入り口

物語の中心にいるのは、オリーヴ・マーティンという女性受刑者です。彼女が犯したとされるのは、母親と妹を切り刻み、その体をふたたび人間の形に並べ直し、台所に血まみれの抽象画を描いたという、正視に堪えない凶行。

無期懲役囚として塀の中にいる彼女には、しかし当初から拭いきれない謎がまとわりついていました。これほど惨たらしい犯行に及びながら、精神鑑定の結果は正常。

そのうえ彼女は、自ら罪を認め、一切の弁護を拒んでいるのです。まるで裁かれることを受け入れてしまったかのように。

そのオリーヴを題材に一冊の本を書くよう、版元から命じられたのがライターのロザリンドでした。気の進まないまま面会に足を運び、取材を重ねていくうち、最初は業務にすぎなかったはずのやりとりの底に、彼女は小さな違和感を覚えはじめます。

確定したはずの有罪。動かないはずの事実。

それでも、目の前の女と向き合う時間が長くなるほど、その輪郭がかすかにぶれていくように感じられてくる。歳月を思わせるゆっくりとした速度で、その引っかかりはやがて一輪の疑惑へと花ひらいていきます。

本当に、彼女の仕業なのか。公式の紹介文そのものが読者に突きつけるこの問いこそ、本書の背骨です。

答えの行方は読んでのお楽しみとして、問いが投げかけられた瞬間の、足元が急に頼りなくなるあの宙づりの感覚を、まずはじっくり味わってほしいところ。

読みどころ

この作品の凄みは、血なまぐさい犯行そのものよりも、人の心の暗がりへじわじわと分け入っていく筆致の側にあります。 ウォルターズが読者を捉えて放さないのは、派手な仕掛けや推理の曲芸によってではありません。

取材者と受刑者という、本来なら机ひとつ隔てて向き合うだけの関係が、面会を重ねるごとに少しずつ質を変えていく。その微妙な移り変わりを、彼女は人物の言葉と沈黙、表情の翳りを通してじりじりと描き出します。

読み手はロザリンドの肩越しに面会室へ座らされ、相手の言葉のどこまでを信じてよいのか判断のつかないまま、同じ不安を分け持つことになる。安全な高みから事件を見下ろす探偵小説とは、立たされる場所がまるで違うのです。

心をえぐるような人物造形と、真相の手ざわりがじわじわと滲み出してくる構成。その二つが噛み合ったとき、読書はいつしか、証言と沈黙のあいだを手さぐりで進むような体験に変わっていきます。

だから、手がかりを拾い集めて犯人を論理でしぼり込む、パズルとしての謎解きを一番の目当てにする読者には、少し毛色の違いを感じるかもしれません。本書が差し出すのは、人間というものの底知れない不可解さを前に、じっと足踏みさせられる濃密な時間です。

逆に、登場人物の内面へゆっくりと降りていく心理描写や、確かだと思い込んでいた前提が少しずつ揺らいでいく感覚を好む読者には、深く刺さる一冊となるでしょう。重い題材を扱いながらも、ページを繰る手が止まらなくなる緊張感の持続は、この作家が国境を越えて評価されてきた大きな理由のひとつ。

一気に読み通したくなる引力があります。

作品の背景

1992年のミステリ第1作『氷の家』で英国推理作家協会(CWA)の最優秀新人賞を射止めてデビューしたミネット・ウォルターズの、続く第2作にあたるのが『女彫刻家』で、アメリカ探偵作家クラブ(MWA)のエドガー賞長編賞とマカヴィティ賞長編賞を重ねて受賞しています。デビューからほどなく英米の主要な賞を立て続けにさらった、そのキャリアの最も早い時期に置かれた代表作が本書です。

手に取るなら

日本では1995年に創元推理文庫から刊行され、翌96年の「このミステリーがすごい!」海外編で第1位に選ばれました。訳は成川裕子。

1951年沖縄生まれの英米文学翻訳家で、著者の『氷の家』『病める狐』『遮断地区』『悪魔の羽根』『カメレオンの影』とウォルターズ作品を数多く手がけ、ほかにフォッスムの北欧ミステリなども訳してきた訳者です。同じ訳者による他のウォルターズ作品も文庫でそろっているので、本書で英国心理サスペンスの手ざわりが気に入ったら、続けて読み進めていくのがおすすめ。

現代英国ミステリの底力を味わうための、確かな一冊です。

ミネット・ウォルターズについて

ミネット・ウォルターズは、1949年にイギリスのハートフォードシャー州ビショップス・ストートフォードで生まれた作家です。ダラム大学でフランス語を学んだあと、雑誌社で編集の仕事に就き、そのかたわら筆名で恋愛小説を書いていました。

1992年の『氷の家』で長編デビューし、英国推理作家協会の最優秀新人賞にあたるジョン・クリーシー賞を受けます。その後も『鉄の枷』と『病める狐』でゴールド・ダガーを受賞しました。

シリーズ探偵を持たず、一作ごとに舞台と人物を変えながら、孤立や家族の歪み、社会の周縁に置かれた人々を描いてきました。2017年以降は歴史小説にも取り組んでいます。

書誌情報

出版社
東京創元社 / 創元推理文庫
原書刊行年
1993
邦訳刊行年
1995
ISBN-13
9784488187149
系譜
現代英国
受賞歴
·

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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