ミステリーとしての読みどころ
霧が街の輪郭を溶かし、見慣れた通りさえどこか知らない場所に思えてくる。そんなロンドンの夜に、死者の名を騙った一通の殺人予告が舞い込みます。
差出人が名乗るのは、十七世紀に実在した絞首刑吏の名前。とうにこの世を去ったはずの処刑人が、これから起こる死を予告してくる。
『絞首台の謎』は、その薄気味悪い一手から幕を開ける一編です。
著者について
書いたのはジョン・ディクスン・カー。一九〇六年にアメリカのペンシルヴェニア州で生まれ、のちに〈不可能犯罪の巨匠〉と称される作家です。
世に出たのは一九三〇年、予審判事アンリ・バンコランを主役に据えた『夜歩く』でした。本書はそのバンコランものに連なる初期作で、原書の刊行は翌一九三一年。
まだ二十代半ばの若い書き手が、持ち前の怪奇趣味を惜しみなく注ぎ込んでいた頃の一編です。ギディオン・フェル博士を探偵役とする『帽子収集狂事件』、ノンシリーズの『皇帝のかぎ煙草入れ』、カーター・ディクスン名義の『ユダの窓』——オールタイム・ベスト級の傑作を次々とものしていくのは、このあとのこと。
本書は、その長いキャリアのまさに入口に立つ一冊です。アメリカに生まれた書き手が、やがて不可能犯罪という一ジャンルの代名詞にまで登りつめていく——その助走の勢いが、初期のこの作品にはそのまま息づいています。
物語の中心にいるのは、予審判事アンリ・バンコラン。その彼のもとに、絞首刑吏の名を借りた殺人の予告が届くところから、歯車は静かに回りはじめます。
脅しの言葉というのは、たいてい差出人の顔がちらついて底が知れるものです。ところが、この予告は違う。
名を騙られているのは、とうの昔に世を去った処刑人。生身の敵ではなく、伝説そのものの側から呼びかけられているような薄気味悪さが、最初の一手からまとわりついてきます。
不気味なのは、その文言ばかりではありません。霧の奥からは、どの地図にも載っていない一本の通りまでもが立ち現れる。
地図から抜け落ちた「破滅街」——本来あるはずのない街路が、都市の片隅にぽっかりと口を開けているのです。実在した処刑人の名と、存在しないはずの道。
ありえないものが、霧を隠れ蓑にして次々と顔を出してきます。
夜のロンドンを覆うこの霧は、単なる書き割りではありません。輪郭を奪い、遠近を狂わせ、たしかにそこにあったはずのものを一夜のうちに呑み込んでしまう。
角を曲がれば見知らぬ時代に迷い込んでもおかしくない——そんな心もとなさのなかで、死んだ処刑人の名や存在しない街路といった怪異が、いかにも起こりうる出来事のように立ち上がってきます。読者は、目の前の一つひとつが本物なのか、それとも手の込んだまやかしなのか判じかねたまま、バンコランと並んで霧の底へと分け入っていく。
この街では、亡霊そのものよりも、亡霊めいたものを平然と成り立たせてしまう都市の気配のほうが、よほど不気味に迫ってきます。おぼつかない足取りで霧を手探りする、その心細さこそ、この一編のいちばんの持ち味です。
読みどころ
この作品の芯にあるのは、怪奇の意匠と謎解きの骨格が分かちがたく溶け合っている点です。 公式の紹介文も、横溢する怪奇趣味と鮮烈な幕切れが余韻を残す、と評しています。
若き日のカーは、読者を怖がらせる舞台装置を組み上げる名手。とはいえ、その怪奇は雰囲気づくりだけを狙った飾りではありません。
ありえないものを堂々と積み上げていく筆の裏には、それを見据えて挑もうとする探偵の理知が、はじめから同居しています。人を戦慄させる意匠と、謎に立ち向かう論理。
相容れないはずのその二つを一つの物語に編み込む腕前こそ、のちに巨匠と呼ばれる書き手の資質そのもの。完成された後年の名作から入るのもよいでしょう。
けれど、その持ち味がどこから芽生えたのかを確かめたい人には、初期のこの一冊がまたとない道しるべになります。
霧と処刑人の伝説がまとう怪奇の空気そのものを味わいたい読者、そして名探偵に導かれて不可能を解きほぐしていく古典の段取りを好む読者には、まっすぐ薦められます。とりわけ、事件そのものよりも、それを包む空気の温度にこそ心惹かれるタイプの読み手。
そうした人とは、間違いなく相性がよいはずです。逆に、明るく軽快な謎解きや、乾いた現代的なテンポを求めて開くと、全編に立ちこめる湿った暗さは肌に合わないかもしれません。
ただ、その陰鬱さこそが本書の身上。灯りを少し落とした夜更けに、窓の外の暗がりと一緒に味わうのがよく似合う一編です。
手に取るなら
手に取るなら、創元推理文庫の新訳版(二〇一七年)。それ以前のおよそ六十年ものあいだ新訳が絶えていた作品で、長く読みづらかった初期カーが、いまは親しみやすい形でよみがえっています。
六十年近くも待たれた再会だと思えば、そのありがたみもひとしおです。本書は、予審判事アンリ・バンコランが登場するシリーズの一編。
まずはここから若き日のカーに触れ、その出発点となった『夜歩く』へ遡ってみるのも一興でしょう。〈不可能犯罪の巨匠〉が立っていた原点の霧に、いちど身を浸してみてください。