黄金期米国古典 1932
作り物の怪物が抱くのは、
本物の女の死体。
『蝋人形館の殺人』ジョン・ディクスン・カー

書評

蝋人形館の殺人

パリの蝋人形館と秘密クラブが醸す、初期カーの怪奇趣味

蝋人形館の殺人 表紙画像
ジョン・ディクスン・カー 東京創元社(創元推理文庫(新訳版)) 原書 1932年 · 邦訳 2016年
目次

蝋人形ばかりが並ぶ薄暗い館。霧に沈むパリの街。

その怪しげな舞台の奥から、一人の令嬢の死をめぐる異様な事件が立ち上がります。『蝋人形館の殺人』は、のちに〈不可能犯罪の巨匠〉と讃えられることになるジョン・ディクスン・カーが、若き日の1932年に世へ送り出した一編。

整った謎解きの骨格に、怪奇と頽廃の匂いが濃く絡みつく、後年の代表作とはひと味違う色彩をたたえた作品です。

物語の入り口

物語は、一人の令嬢の失踪から始まります。かつて閣僚を務めた人物の娘が姿を消し、やがてセーヌ河で他殺死体となって引き上げられる。

頽廃の都パリを震撼させる、不吉な幕開けです。彼女が最後にその姿を目撃されていたのは、街なかにある一軒の蝋人形館でした。

生きた人間ではなく蝋の人形が客を迎えるこの場所へ、令嬢はなぜ足を運んだのか。しかもそこは、彼女の消息が途切れる最後の一点でもありました。

事件の入り口には、はじめから薄気味悪い問いが据えられています。

捜査にあたるのは、パリ警察の予審判事バンコランです。彼はまず、その館の館主を呼び出して尋問します。

館主の答えだけでは晴れない疑念を抱えたまま、バンコランは自ら現場の館へと向かい、展示をひとつずつ見て回りはじめます。薄暗い室内に、動くはずのない蝋人形たちが無言で佇む静けさ。

人の姿をそっくり写した蝋の像に四方から見つめられているような心地のなか、彼は歩を進めていきます。その奥まった一角で、バンコランは異様なものに行き当たります。

半人半獣の怪物をかたどった蝋像。その腕に抱かれるようにして、もう一人の若い娘が、こと切れて横たわっていたのです。

セーヌ河に浮かんだ令嬢と、蝋人形館の娘。一見すると隔たった二つの死は、なぜひとつの館へと引き寄せられたのか。

その謎が、頽廃の都の底へと読者を誘い込んでいきます。ここで効いてくるのが、舞台そのものの放つ不気味さです。

蝋人形のひしめく館、霧に閉ざされたパリの夜。生と死、本物と作り物の境が溶け合うようなその空間を、読者はバンコランのすぐ後ろから、一歩ずつ辿っていくことになります。

頽廃の都を震撼させた異様な事件の真相は、どこにあるのか。霧と頽廃に沈む大都会の底で、答えはまだ深い影の中に隠れたままです。

冷たい館の空気とともに、問いだけが胸に残されます。

読みどころ

本書の読みどころは、謎解きの論理よりもまず、全編を覆う怪奇と頽廃の空気にあります。 蝋人形館という舞台立て、霧のパリ、怪物像に抱かれた娘の死体。

若き日のカーは、後年の緻密な不可能犯罪ものへ進む前に、まず場の雰囲気で読者を掴む筆の力を存分に振るっています。ゴシックな恐怖と退廃的な美意識が濃く溶け合ったこの色彩は、整いすぎない初期作ならではのもので、円熟期の端正な作品とはまた違う生々しさを宿しています。

怪奇と論理が同居する黄金期らしい薫りを、まだ荒削りな筆致のまま堪能できる一編です。

その闇を照らすのが、探偵バンコランの造形です。優雅な装いの下に、悪魔(メフィストフェレス)を思わせる冷徹さと知性を秘めた予審判事。

慇懃な物腰と底知れぬ鋭さのちぐはぐさが、頽廃の都という舞台にぴたりと嵌まっています。この一癖ある探偵の名推理をどう味わうかが、本書のもう一つの軸になります。

こんな人におすすめ

そのため本書は、パズルとしての切れ味だけを最優先する読者よりも、事件の起こる場所の空気や、ゴシックな怪奇の趣を愛でる読者に強く響きます。逆に、明るく端正な謎解きを期待して開くと、この濃い頽廃の匂いはやや過剰に映るかもしれません。

とはいえ、その怪しさこそが本書の持ち味です。名探偵に導かれて薄暗い館を巡る時間そのものを楽しめる人にとっては、忘れがたい読書になるはずです。

作品の背景

本書は、予審判事アンリ・バンコランを探偵役とするカーの初期作のひとつです。作家としての長い航跡の、まだ出発点に近い場所に本書は立っています。

手に取るなら

いま手に取るなら、創元推理文庫の新訳版が間違いありません。長らく文庫では読めなかった作品で、これが新訳にして初の文庫化にあたります。

巻末には鳥飼否宇による解説を収録。本書は『IN★POCKET』2012年文庫翻訳ミステリー・ベスト10の作家部門で第10位にも挙げられました。

予審判事バンコランを探偵役とする初期シリーズの一編として、若き日のカーがどんな色彩から出発したのかを確かめるのに、これほど恰好の入り口はそうありません。

ジョン・ディクスン・カーについて

ジョン・ディクスン・カーは1906年にアメリカのペンシルヴェニア州で生まれ、1977年に亡くなりました。1930年、パリの予審判事アンリ・バンコランが登場する『夜歩く』でデビューし、1932年に英国人女性と結婚して渡英してからは、英国を主な舞台に書き継いでいきます。

ギデオン・フェル博士のシリーズと、カーター・ディクスン名義で書いたヘンリ・メリヴェール卿のシリーズという二つの柱を並行させ、『帽子収集狂事件』『ユダの窓』、シリーズの外に置いた『皇帝のかぎ煙草入れ』などを残しました。

密室をはじめ、起こりえないはずの状況を組み立てては解いてみせる作風から〈不可能犯罪の巨匠〉と呼ばれ、怪奇な雰囲気づくりにも長けた書き手です。1950年に伝記『コナン・ドイル』でアメリカ探偵作家クラブの特別賞を受け、1963年には同クラブの巨匠賞(グランド・マスター)を贈られています。

書誌情報

出版社
東京創元社 / 創元推理文庫(新訳版)
原書刊行年
1932
邦訳刊行年
2016
ISBN-13
9784488118310
系譜
黄金期米国古典 / 名探偵もの

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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