ミステリーとしての読みどころ
ブロードウェイで男たちを手玉に取ってきた美しき歌姫が、鍵のかかった自室で無残に殺害される。「カナリア」と呼ばれたその女の死から、『カナリア殺人事件』の幕は上がります。
1927年に発表されたこの一作は、黄金期の米国ミステリを語るうえで欠かせない代表作。限られた手がかり、わずか四人の容疑者、そして矛盾だらけで不可解な状況を前に、心理分析という一風変わった武器を携えた素人探偵が謎に挑みます。
著者について
著者のS・S・ヴァン・ダインは、もともと創作畑の人ではありません。ウィラード・H・ライトという本名で美術評論家として一家を成していた人物が、病の療養中に二千冊もの推理小説を読破し、あろうことか自らその書き手へと転じてしまった——そうして生まれた変名が「S・S・ヴァン・ダイン」でした。
1887年に生まれ、1939年に世を去るまでのあいだに、彼は学究肌の名探偵ファイロ・ヴァンスを主役とする十二の物語を残します。本書はそのシリーズの第二作にあたり、1927年の刊行当時にベストセラーとなって、著者の名声を確固たるものにしました。
のちに『グリーン家殺人事件』『僧正殺人事件』といった作品で心理的な探偵法の頂点をきわめていく書き手の、その足場を固めた一冊と言ってよいでしょう。
物語の入り口
舞台は、きらびやかな夜のニューヨーク。まばゆいフットライトと拍手喝采、その熱気が渦巻くブロードウェイの一角に、マーガレット・オウデルという歌姫がいました。
「カナリア」の異名で親しまれた彼女は、その美しさを武器に、近づいてくる男たちを次々と手玉に取ってきた女性です。舞台の上で誰よりも輝き、名声をほしいままにしていた——そんな華やかな存在が、ある日、自室で無残な死を遂げます。
しかも、部屋には鍵がかかっていた。栄華の絶頂にいたはずの女の、あまりに不可解な最期でした。
事件は、はじめから奇妙な貌をしています。現場に残された状況は矛盾に満ち、どこから手をつければよいのか、不可解きわまりない。
捜査に当たる者たちは、目の前の手がかりを並べてみても、そこから素直な筋道を引くことができません。やがて容疑の圏内に浮かび上がってくるのは、わずか四人。
これだけ人数が絞られているのに、事件はいっこうに決着へ向かおうとせず、かえって謎の底は深くなっていきます。
ここで表舞台に現れるのが、名探偵ファイロ・ヴァンスです。彼は警察の人間ではありません。
富裕な美術通にして、ニューヨークの教養人。学究肌の素人探偵です。
地方検事マーカムらとともに、この不可解きわまる事件へと足を踏み入れていきます。ヴァンスが頼みとするのは、足で証拠を集める手堅さよりも、人の心の襞を読む独創的な推理手法でした。
物証が多くを語らないのなら、人間そのものを読めばよい——そんな流儀で、彼は矛盾のかたまりのような事件へと分け入っていきます。読者は、その端整な思考の傍らに立ち、決め手を欠いたまま宙づりになった謎と、同じ高さで向き合うことになります。
読みどころ
本書の醍醐味は、ひとりの名探偵の頭の中に、まるごと身をあずける快さにあります。 ヴァンスの推理は、物的な証拠を並べて外堀を埋めていく手堅さよりも、人間の心理を読み解く独創性に賭けられています。
証拠が黙して語らない場面でも、彼は人の言動の奥にひそむものへ目を向け、そこから事件の像を立ち上げていく。この探偵の思考につき従っていくこと自体が、読書の大きな愉しみになっています。
派手な立ち回りではなく、あくまで知の運動として謎解きが進む——黄金期の名探偵ものが持っていた、あの贅沢な手ざわりがここにあります。
もうひとつは、ミステリ史のなかでこの作品が占める場所です。1927年という早い時期に、ヴァン・ダインは論理性と洒脱な語り口を兼ね備えた探偵小説を書いてみせ、当時の米国で爆発的に読まれました。
論理性と洒脱な語りで黄金期の米国ミステリを牽引した書き手——その評価を決定づけたのが、ほかならぬ本書です。のちの黄金期米国ミステリが花開いていく土壌をならした一冊でもあり、古典を順にたどってみたい読者にとって、ここは通り過ぎるわけにいかない一里塚と言えます。
名探偵の推理に身を任せ、その思考の運びをゆったり味わいたい読者には、これ以上ないほど誂え向きの一冊です。古典ならではの格式ある語り口や、少し理屈っぽいほど丁寧に運ばれる推理も、この作品では魅力の側に働きます。
逆に、息もつかせぬスピード感や、登場人物の感情に強く揺さぶられる読書を求めていると、その悠然としたテンポはややまだるく感じられるかもしれません。けれど、腰を据えて名探偵と知恵くらべをしたい夜には、この落ち着いた足どりこそがありがたく思えるはずです。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の新訳(日暮雅通訳)が確かな選択です。訳者の日暮雅通は、ドイル『新訳シャーロック・ホームズ全集』などで知られる翻訳家で、こなれた読みやすい日本語で古典を届けてくれます。
巻末には三橋暁による解説を収録。そして嬉しいことに、学究肌の名探偵ファイロ・ヴァンスが活躍する全十二作は、すべてこの創元推理文庫で読み通すことができます。
まずは著者の名を高からしめたこの第二作から、黄金期米国ミステリの世界へ足を踏み入れてみてはいかがでしょう。