自殺のはずが他殺だった。
ケンネル殺人事件
内側から施錠された寝室で撃たれた収集家。ヴァンス最高峰の密室劇。
内側から錠の下りた寝室で、拳銃を握ったまま、一人の男が頭を撃たれて倒れている。ドアは内から施錠され、誰かが出入りした形跡もない。
どう見ても、これは自殺です。ところが、その見立てが崩れた瞬間から、事件はまったく違う顔を見せはじめます。
『ケンネル殺人事件』は、閉ざされた一室を出発点に、古代中国の陶器と犬をめぐる衒学が入り混じった謎を、名探偵ファイロ・ヴァンスがときほぐしていく一作です。
物語の入り口
ヴァン・ダインが生んだ探偵が、作者と同じく学究肌のファイロ・ヴァンス。物語の中心にいるのは、中国陶器の収集家アーチャー・コーです。
古い時代の器物に美と値打ちを見いだし、その一点一点に心を注ぐ——古典的な愛好の世界に生きる男でした。そのコーが、自室の寝室で息絶えているところを発見されます。
ドアの錠は内側から下り、拳銃はその手に握られたまま。頭を撃たれて倒れた姿と、外から誰も入り込めない部屋の様子とは、状況のいっさいが一つの結論、すなわち自殺を指し示しているように見えました。
少なくとも、はじめのうちは。
ところが、その第一印象は長くは保ちません。やがて事件は他殺と判明し、自殺という見立ては根こそぎ覆ります。
すると、閉ざされていたはずの一室が、今度はまったく別の重みを帯びてくる。もし他殺なら、犯人はいったいどうやって、内から錠の下りたこの部屋から抜け出したのか。
自殺にしか見えなかった光景が、そっくりそのまま、解かれるべき最大の謎へと姿を変えていくのです。
ここから先、読者が付き合うことになるのは、一見ばらばらな断片の集まりです。古代中国の陶器にまつわる細かな蘊蓄、そして犬。
事件は、こうしたペダントリーに彩られながら輪郭を結んでいきます。どれも最初は互いに無関係に見える。
ところが、クロスワード・パズルの升目が縦と横で交わって言葉を形づくるように、それらの要素は少しずつ関連しあい、やがて一つの正しい解決へと収束していくのです。何がどう結びつくのか見当もつかないまま、盤面が一マスずつ埋まっていくのを見守る——それが、この作品ならではの手ざわりです。
読みどころ
読みどころは、雑多に見える知識の断片が一つの解へと編み上げられていく、その設計の妙にあります。 陶器をめぐる衒学も、犬も、はじめは物語の飾りのように差し出されます。
それが確かな手がかりだったと腑に落ちるのは、盤面が形を成しはじめてから。手がかりを撒く手つきと、それを回収する手つきの両方を、学究肌のヴァンスの推理を追いながら味わえる。
名探偵の頭脳に全幅の信頼を置いて、その後をゆっくりついていく楽しみが、ここには詰まっています。
黄金期アメリカ本格の様式を、丹念に組み上げられた一室の謎で味わえるのも、本作の確かな魅力です。差し出された材料が過不足なく噛み合っていく手際そのものを見せる作りで、読者は細部を一つずつ確かめながら、解決へ近づいていく感触を味わえます。
無駄なく組み上げられたその律儀さこそが、時代を越えて読み継がれる古典の風格を支えているのです。
名探偵の推理にゆったり身を任せ、盤面が一手ずつ埋まっていく過程を楽しみたい読者には、まっすぐ薦められる一冊です。逆に、息もつかせぬ速度で突き進む物語を求めていると、陶器や犬をめぐる蘊蓄の連なりは、ときに回り道に感じられるかもしれません。
けれど、その衒学こそが謎の骨組みそのものであり、腰を据えて付き合うほど手ごたえが増していく——本作は、そういう手ざわりの面白さを備えた作品です。
作品の背景
本作は、ヴァンスものの第6作にあたります。世界の推理文壇の寵児となった作者が、〈コスモポリタン〉誌のたび重なる要請に応えて連載した一編で、「巨匠会心の第6作」とうたわれる仕上がりとなりました。
この「第6作」という数字には、作者自身の信条が重なっています。ヴァン・ダインは「一人の作家に書ける優れた探偵小説は六作まで」という持論を唱えていました。
本作はまさにその区切りにあたる一冊であり、シリーズの集大成として、評価の高い作品に数えられています。
手に取るなら
現在手に取るなら、創元推理文庫の井上勇訳です。ファイロ・ヴァンスが登場する十二の作品はすべて同じ文庫に収められているため、本作を入り口に、『グリーン家殺人事件』『僧正殺人事件』へと読み進めていくこともできます。
作者みずからが一つの区切りと定めた第6作から、ヴァン・ダインの築いた探偵小説の世界に足を踏み入れてみてください。
S・S・ヴァン・ダインについて
S・S・ヴァン・ダインは、美術評論家ウィラード・ハンティントン・ライトが探偵小説を書くときに使った筆名です。1888年にヴァージニア州で生まれ、1939年にニューヨークで亡くなりました。
若いころは新聞の文芸欄や文芸誌『スマート・セット』の編集に携わり、近代絵画を論じる先鋭的な評論家として知られていました。
1923年に体を壊して長い療養生活に入り、その間に推理小説を大量に読み込んだことが創作の出発点になったと本人は語っています。後年の伝記はこの回想に疑問を呈しています。
1926年、素性を隠した筆名で、博識な素人探偵ファイロ・ヴァンスが活躍する『ベンスン殺人事件』を発表し、『カナリア殺人事件』『グリーン家殺人事件』と続けてベストセラー作家となりました。ヴァンスものの長編は12作を数えます。
1928年には、推理小説を書くうえでの心得を二十か条にまとめた文章も発表しました。
書誌情報
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