ミステリーとしての読みどころ
補聴器をつけた、安全無害の男。その人がなぜ殺されなければならなかったのか——『ニコラス・クインの静かな世界』の中心には、この問いがぽつんと置かれています。
恨みを買いそうにない人物が、毒によって命を絶たれる。犯人の顔かたちよりも先に、殺す理由のほうが見えてこない。
捜査はその空白から始まります。
著者について
作者はコリン・デクスター。本作は1977年に発表された、モース主任警部を主人公とするシリーズの一冊です。
事件を追うのは組織としての警察であり、聞き込みと確認の手続きを一段ずつ踏んでいく物語でありながら、最後に問われるのは論理の切れ味。英国の警察小説らしい重厚な手ざわりと、謎解き小説としての骨格が、一冊の中で無理なく同居しています。
デクスターは「現代本格派の騎手」と呼ばれた書き手で、華麗な謎解きとアクロバティックな推理によってその名を知られてきました。アクロバティック、という形容がいささか大げさに響くとすれば、それはおそらく読み終える前の話です。
同じ事実でも、置き方ひとつで見える景色が変わってしまう——その手つきの鮮やかさこそが、この作家の看板でした。本作が世に出たのは、1977年のことでした。
物語の入り口
物語は殺人よりもずっと手前、ひとつの人事から動き出します。海外学力検定試験委員会。
その一員にニコラス・クインが選ばれたとき、委員会は大騒ぎになりました。クインは極度の難聴で、人と言葉を交わすにも読唇術だけが頼りだったからです。
声によって進む会議の席に、その声が届かない人が着く。前例のない同席が、折り目正しいはずの場所をこれほどまでにざわつかせました。
大騒ぎ、という一語には、驚きも戸惑いも、口には出しにくい種類の警戒も、まとめて畳み込まれています。歓迎とためらいが同じ部屋の中で入り混じる空気。
原題がそのまま告げるとおり、クインが身を置いているのは音のない世界であり、同じ議題を前にしていても、彼のもとに届くのは唇の動きが形づくる分だけです。静かな世界という題名は、その距離をそのまま言い当てています。
そして三ヶ月後。クインは毒殺死体となって発見されます。
就任からわずか三ヶ月。補聴器をつけた安全無害の男が、毒を盛られてまで退けられなければならなかった理由とは、いったい何だったのか。
ここで読者が突きつけられるのは、動機そのものが見当たらないという困惑です。安全無害と紹介されるほかない人物に、確かな殺意だけが向けられていた。
その一点を抱えたまま、捜査は動き出します。
捜査の照準は、早々に定まります。モース主任警部は即座に委員会へ目を向け、そこから調べを開始します。
無害な男の死を必要とした事情があるのなら、それは彼が三ヶ月前に足を踏み入れたばかりの、あの場所にあるはずだ——そう見立てての着手です。こうして読者は、委員会という限られた輪の内側へ、警部と並んで踏み込んでいくことになります。
会議と書類と規則が支配する、事件からもっとも遠そうな場所。静かな場所であるほど、疑いは行き場を失って濃くなっていきます。
読みどころ
読みどころは、動機の空白を出発点に据えた組み立てにあります。 殺される理由の見えない被害者をひとり置くだけで、捜査は誰にできたのかという問いと同じ重さで、なぜ必要だったのかを問い続けなければならなくなる。
モースの仕事は、閉じた場に集まった事実を一つずつ拾い、並べ替え、意味を組み替えていく作業の連続です。しかも読み手にも同じ材料が手渡されますから、いつのまにか自分でも並べ替えを試している。
ページを繰る手がふと止まるとすれば、それはいま読んだ一節を頭の中でもう一度置き直しているからでしょう。頭をフル回転させたい日にこそ向く一冊です。
もうひとつの魅力は、この物語が流れていく空気そのものにあります。試験と委員会という、血なまぐささからもっとも縁遠い制度を舞台に据えたことで、事件の異物感がいっそう際立ちます。
折り目正しい手続きの世界に落ちた、一滴の毒。英国情緒と呼びたくなる陰影は、こうした舞台設定と、警察小説の律儀な歩幅とが組み合わさったところから立ち上がってきます。
書類が回り、会議が開かれ、規則どおりに日々が進んでいく——そういう場所を舞台に選んだこと自体が、この作品の企みなのだと思えてきます。事件を解くための材料が、退屈そうに見える日常の側に落ちているのだとすれば、読者もまた、細部から目を離せなくなるはずです。
こんな人におすすめ
相性でいえば、銃撃や追跡の連続を期待する読者には、この物語の歩みは静かに映るかもしれません。事件は起き、捜査は進みますが、いちばんの見せ場は言葉と事実を突き合わせる側にあります。
裏を返せば、提示された条件を自分でも並べ直しながら読みたい読者、あるいは英国ミステリの重い空気ごと味わいたい読者には、時間を惜しまず薦められる一作です。謎解きの手応えを主食にしたい人ほど、読み終えたときの満足は大きいはずです。
半世紀近く前の作品だからと身構える必要もありません。むしろ、こうした読み口を今どき正面から引き受けてくれる小説のほうが貴重になりました。
手に取るなら
手に取りやすいのは早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫版です。モース主任警部シリーズの一冊ですから、気に入ればそのままシリーズのほかの事件へ足を延ばす楽しみも続いています。
1977年の作品でありながら、提示された謎に頭を使わされる感覚は少しも古びていません。静かな世界に生きた男が、なぜ殺されたのか。
その問いに付き合う時間は、間違いなく手応えのあるものになります。