「見えないドア」しかない。
幻の屋敷
名探偵キャンピオンの短編を集めた、英国黄金期の妙味あふれる第二巻。
証言によれば、犯人は"見えないドア"を通って現場に出入りしたとしか思えない——ロンドンの社交クラブで起きた絞殺事件は、そんな不可能めいた謎として立ち上がります。挑むのは名探偵アルバート・キャンピオン氏。
ただし本書で読めるのは、長編ではなく短い尺に切り取られた事件の数々です。趣向を変えた十二の謎が、一冊のなかに並びます。
物語の入り口
とりわけ名高いのが「見えないドア」です。舞台はロンドンの社交クラブ。
そこで一件の絞殺事件が起こります。ところが証言によれば、犯人は現場に出入りできたはずがないのです。
まるで、そこにあるはずのない"見えないドア"を通り抜けたとしか思えない——。人が殺められているのに、その出入りだけが説明のつかないまま宙に浮く。
読者はキャンピオン氏の傍らで、ありもしないはずの一枚のドアを前に立ち尽くすことになります。考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。
不可能が不可能のまま突きつけられる、鮮やかな謎の立ち上がりです。
趣ががらりと変わるのが、表題作「幻の屋敷」です。その入り口は、もっと暮らしの側にあります。
留守にしていた家に、一通の謎めいた手紙があらわれる。ただそれだけのことが、思いもよらない大騒動へと膨らんでいくのです。
かと思えば「奇人横丁の怪事件」では、警察署の扉を一人の老人が押します。礼儀正しく、見るからに理性的な紳士。
ところが、その口から、やがて突拍子もない証言がこぼれはじめる——。不可能犯罪、日常のほころび、人物の奇妙さ。
入り口の作り方からしてまるで違う三編が、ひとつの表紙の下に肩を並べています。
収められた短編は、全部で十二。「綴られた名前」「魔法の帽子」に始まり、「極秘書類」「ママは何でも知っている」「聖夜の言葉」と、題名を並べるだけでも色合いはひとつずつ異なります。
本邦初訳作を含む、日本オリジナル編集の一巻です。長い物語のなかでじっくり付き合うのとはまた違った味わいで、短い尺のなかに事件が次々と立ち上がる。
腰を据えて一冊を読み通すのもいいし、気になった題名から拾い読みしていくのも似合う。そんな懐の広さが、この短編集にはあります。
読みどころ
本書の醍醐味は、名探偵ものの愉しみを、短編という凝縮された形で何度も味わえるところにあります。 長編なら一冊まるごとで一つの謎ですが、短編集では頁をめくるたびに新しい事件が立ち上がります。
不可能状況の鮮やかさ、日常が思わぬ騒ぎへ転じるおかしみ、一筋縄でいかない人物の奇妙さ——それぞれの持ち味が、余分をそぎ落とした尺のなかで一気に手渡される。ひとつ解き終えては次、また次へと、味の違う謎をつまんでいく楽しさがあります。
もう一つの読みどころは、英国黄金期の空気そのものです。社交クラブ、留守宅、警察署の窓口。
事件の起こる場所からして、あの時代の英国が匂い立ちます。名作「見えないドア」のように後世へ語り継がれる一編を含みながら、全体としては肩の力を抜いて頁を繰れる。
四大女流作家の一人の手つきを、短めの尺から気軽に確かめられる一冊です。
こんな人におすすめ
名探偵の推理をたっぷり追いかけたい読者には、短編集の速さが物足りなく映ることがあるかもしれません。一編ごとに謎が解かれ、余韻を味わう間もなく次の事件へ移っていく。
長編のような厚みのある心理描写や、一つの謎とじっくり格闘する時間を求めるなら、そのテンポが逆に惜しく感じられることもあるでしょう。けれど、その速さこそが短編集の身上でもあります。
趣向の異なる謎が次々に解かれていく心地よさを浴びるように味わい、細切れの時間に一編ずつ読み進められる。忙しい日々の合間にこそ似合う一冊です。
作品の背景
長編の印象が強いマージェリー・アリンガムだけに、名探偵キャンピオン氏を短編の切れ味で味わえる本書は、彼女の仕事を別の角度からのぞく窓にもなっています。
手に取るなら
手に取るなら、創元推理文庫の一冊です。訳は猪俣美江子。
セイヤーズ『大忙しの蜜月旅行』やブランド『薔薇の輪』、ピーターズ『雪と毒杯』などを手がけてきた英米文学の翻訳家で、この《キャンピオン氏の事件簿》もその訳業のひとつです。巻末には若林踏による解説を収めます。
本書は、日本オリジナルで編まれた《キャンピオン氏の事件簿》全三巻の第二巻にあたります。長編で知られる名探偵を、短編の切れ味で楽しむ——その入り口として、これほど手ごろで中身の確かな一冊はそうそうありません。
マージェリー・アリンガムについて
マージェリー・アリンガムは1904年、ロンドンのイーリングに生まれました。両親ともに物書きという家庭に育ち、1923年、19歳で冒険小説『Blackkerchief Dick』で作家としての一歩を踏み出します。
1928年に最初のミステリ『The White Cottage Mystery』を発表し、翌1929年の『The Crime at Black Dudley』で、のちの看板となるアルバート・キャンピオンを脇役として初めて登場させました。
素性を明かさない青年紳士キャンピオンは巻を重ねるごとに人物として深まり、長編だけで18作に登場します。初期の軽やかな冒険仕立てから、『霧の中の虎』のように犯罪者の人物像へ踏み込む作品まで、作風の幅を広げていきました。
クリスティー、セイヤーズ、ナイオ・マーシュと並ぶ英国黄金期の四大女流作家の一人に数えられ、1966年に世を去っています。
書誌情報
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