ミステリーとしての読みどころ
過去は、なかなか静かにしてくれません。二年前に消えた女子学生の事件は、当時のまま冷え切って眠っていたはずでした。
ところがある日、その名前が思いがけない形で捜査の机の上へ戻ってきます。『キドリントンから消えた娘』は、いったん打ち切られたはずの失踪事件が、二重の偶然によって息を吹き返すところから動き出す警察小説です。
オックスフォードの街を舞台に、主任警部モースが向き合うのは、手がかりの多くがすでに冷めてしまった一件でした。
著者について
作者コリン・デクスターは、古典学の教師を経て作家になった英国の書き手です。本作は1976年に発表された、モース主任警部シリーズの第2作にあたります。
論理を一歩ずつ積み上げていく手つきが持ち味で、乏しい手がかりから過去の像を組み立て直していく本作には、その作風がよく表れているとされます。刊行以来「アクロバティックな推理」「現代本格の最高峰」と評されてきた、シリーズの中でも評価の高い一冊です。
第2作という位置は、探偵役の輪郭がすでに固まり、書き手が仕掛けそのものに腕を振るいはじめる頃合いでもあります。派手な事件の連続で読ませるのではなく、すでに起きてしまった出来事の輪郭を、後追いの推理でくっきりさせていく。
そこにこの小説の勝負どころがあります。
物語の舞台は、オックスフォード近郊のキドリントン。女子学生バレリー・テイラーがこの町から姿を消し、行方の知れないまま二年が過ぎています。
捜索の熱はとうに冷め、事件は書類の底で静かに眠っていました。誰もがそのまま忘れかけていた、と言ってもいいかもしれません。
ところが、二つの出来事がほとんど時を接して起こります。ひとつは、かつてこの失踪を追っていた捜査担当官が、事故でこの世を去ったこと。
もうひとつは、その直後、バレリー本人を名乗る手紙が両親のもとへ届いたことです。手紙の中身は、拍子抜けするほど素っ気ないものでした。
元気だから心配しないで——書かれていたのは、たったそれだけ。二年ぶんの沈黙のあとに寄こされた便りとしては、あまりに短い数行です。
けれど、その短さがかえって問いを増やします。もし生きているのなら、なぜ二年ものあいだ音沙汰がなかったのか。
何が彼女を失踪へと追いやったのか。そして今、いったいどこで、どう暮らしているのか。
たった数行の便りが、消えたはずの疑問をいっせいに呼び戻してしまうのです。
こうして冷え切った事件が、モース主任警部の手もとへ回ってきます。相棒はルイス部長刑事。
二人が引き継ぐのは、当事者の多くがもう口を開けない、時間の経った謎です。証言はとうに古び、現場の熱もとうに失われている。
ふつうなら手のつけようがない条件から、二人の捜査は始まります。そして捜査に取りかかったモースは、周囲とは異なる一つの見立てを胸に抱いていました。
「バレリーは死んでいる」——。生きていることを告げる手紙が届いた直後に、である。
この便りとはおよそ噛み合わない直感を起点に、警部は過去の断片を一つずつ拾い直していきます。
読みどころ
読みどころは、二年という時間の壁を推理だけで越えていく手つきにあります。 目の前で起きる事件を追うのではなく、とうに終わったことにされた出来事を、残されたわずかな痕跡から組み立て直す。
証言は薄れ、関係者の記憶も曖昧になったなかで、モースはいくつもの筋道を立てては崩し、また立て直していきます。読者はその思考のすぐ隣に立たされ、同じ手がかりを見せられながら、警部がどこへ向かおうとしているのかを測りかねたまま付いていくことになります。
仮説が揺れるたびに事件の見え方そのものが入れ替わっていく——その落ち着かなさが、この小説を先へ先へと押し出す力になっています。
一撃の大トリックや、息もつかせぬ急展開を第一に求める読者には、過去をたどり直すこの歩みはやや地味に映るかもしれません。反対に、手がかりを吟味し、論理の組み替えそのものを楽しみたい読者にはよく応えてくれる作品です。
舞台となるオックスフォードの街の空気や、警察という組織のなかで一歩ずつ進んでいく捜査の手ざわりごと味わいたい人にも、よく向いています。答えを急がず、推理の過程そのものに付き合う時間を惜しまない読者ほど、この一冊には深く報われるはずです。
手に取るなら
現在の版は早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫、邦訳題は『キドリントンから消えた娘』(1989年刊)です。モース主任警部シリーズの第2作にあたりますが、前作を知らなくても単独で十分に楽しめる作りになっています。
パズラー色の濃い警察小説を探している人、あるいはこのシリーズの世界にこれから触れてみたい人にとって、確かな読み応えのある一冊です。ここでモースとルイスの捜査ぶりが気に入れば、そこからシリーズの前後へ手を伸ばしていく楽しみも待っています。
冷えた事件をどう温め直すのか——その手並みを、腰を据えて味わってみてください。