地図にない村。
鴉
地図にない村の因習と鴉の不穏な影が、論理の迷宮へ読者を誘う長編。
地図を広げても、その村は載っていません。麻耶雄嵩『鴉』の舞台は、山の向こうにある異郷の村です。
訪ねる者はまず、道を知りません。弟・襾鈴(あべる)の失踪と死の謎を追う兄・珂允(かいん)は、それでもその土地へ潜り込みます。
頭上を覆うのは鴉の大群。祭りと薪能、蔵の奥の人形、錬金術と五行思想——いずれも、この村の風物です。
1997年に幻冬舎から出た長編で、「本格ミステリ・ベスト10」1998年版の国内1位に選ばれています。
物語の入り口
兄が村へ向かう理由は、観光でも調査でもありません。弟の襾鈴は失踪し、死んだ。
その経緯に納得できない珂允が、答えを求めて地図にない土地へ踏み込むのです。異郷という言葉が示すとおり、そこは外の常識が通じない場所です。
住人同士の結びつきは濃く、よそ者へ向けられる言葉には見えない壁がある。村の人々が珂允に向ける目は、客を迎えるそれではなく、よそ者を測る目です。
土地に染みついた因習を、珂允はまず身をもって知ることになります。
村の風物は、数え上げればきりがありません。鴉の大群が人を襲い、四つの祭りと薪能が営まれ、蔵の奥には人形が置かれている。
錬金術や五行思想も、この土地の話に顔を出します。ひとつひとつは民俗誌の項目のようですが、それらが一つの村に同居し、しかも空を鴉が覆うとなれば、風景はもう日常のものではありません。
そこへ、住人たちの妬みや憎しみ、うわべだけの善意が重なります。閉ざされた土地で、人の感情もまた閉じている。
怪奇小説の緊張と、村社会の息苦しさが、ここでは同じ空気から生まれています。
読者の位置は、珂允の肩越しです。彼と同じように土地の秩序を知らず、住人の言葉の裏を読みかね、鴉の羽音に足を止める。
確かな足場は、なかなか与えられません。頼りになるのは、珂允が自分の目で拾い集めたものだけです。
分かっているのは、弟がここで消え、ここで死んだということだけです。それでも探索は続き、弟に何が起きたのかという問いは、村で起こる出来事と少しずつ重なっていきます。
そして、この幻想と因習の濃い霧の中に、名探偵メルカトル鮎も姿を見せます。麻耶雄嵩のデビュー作の副題で「最後の事件」と添えられながら、その後の作品にも登場を続けてきた探偵です。
読みどころ
本作の醍醐味は、怪奇と論理が同じ紙面で張り合うところにあります。 鴉の大群、祭り、人形、錬金術。
素材だけを並べれば伝奇小説か幻想小説の道具立てですが、『鴉』はこれらを雰囲気のためだけには使いません。弟に何が起きたのか、村の内部で続く出来事はどう結びつくのか。
珂允が拾う言葉や違和感のひとつひとつが、幻想的な景色の中に具体的な問いを刻んでいきます。雰囲気に呑まれて先を急ぐ読み方を、この長編は許さない作りです。
もうひとつは、怪奇と本格のどちらにも寄せきらない書き方です。「本格ミステリ・ベスト10」1998年版の国内1位は、これだけ怪奇と民俗の色が濃い長編に与えられました。
鴉や祭りや人形といった道具立てだけを並べれば、伝奇小説と見分けがつきません。その衣装の下で、弟の死をめぐる問いが論理の側から立てられています。
幻想の景色を削らず、謎の筋道も手放さない。その両立が、この作品の輪郭をつくっています。
軽快な謎解きを期待して開くと、村の空気に馴染むまでの序盤が重く映るかもしれません。村の習わしを一つずつ覚え、住人の顔と名を結びつけるまでに、それなりの頁数が要ります。
筋だけを追って急ぐより、村の決まりごとを一つずつ手元に置きながら読むほうが、この作品の手ざわりには合っています。ただ、その重さを引き受けて沈み込んだ先で、論理が輪郭を現す。
その落差こそが、この作品の値打ちです。
作品の背景
『鴉』は1997年9月に幻冬舎から単行本として刊行され、1999年4月の幻冬舎ノベルス版を経て、2000年10月に幻冬舎文庫に収められました。1991年に麻耶雄嵩がデビューしてから6年後の長編です。
「このミステリーがすごい!」1998年版では国内16位でした。2007年には台湾で、2011年には中国でも翻訳が出ています。
手に取るなら
現在手に取るなら、幻冬舎文庫版です。電子版もあり、入手しやすい状態が続いています。
メルカトル鮎シリーズの5作目にあたりますが、珂允の探索という一本の筋で語られるため、ここから読み始めても差し支えありません。探偵の来歴を先に知りたければ、デビュー作『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』が入口になります。
鴉の羽音が聞こえる暗い景色に身を置き、それでも事実をひとつずつつなごうとする。そういう読書時間を求める人のための一冊です。
麻耶雄嵩について
麻耶雄嵩は1969年、三重県上野市(現在の伊賀市)の生まれです。京都大学工学部に学び、在学中は京大推理小説研究会に所属しました。
1991年、綾辻行人・法月綸太郎・島田荘司の推薦を受けて『翼ある闇 メルカトル鮎最後の事件』でデビューしています。
以後、メルカトル鮎、京都の名探偵木更津悠也、推理を使用人に任せる貴族探偵と、癖の強いシリーズ探偵を並行して書き継ぎ、名探偵という存在そのものを問い直す本格を発表してきました。2011年に『隻眼の少女』で第64回日本推理作家協会賞と第11回本格ミステリ大賞を受け、2015年には『さよなら神様』で2度目の本格ミステリ大賞を受けています。
『貴族探偵』は2017年にテレビドラマにもなりました。
書誌情報
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