ミステリーとしての読みどころ
妖しく、どこか退廃した匂いのするパリ。夜の底に沈んだその街を舞台に、怪奇の彩りをまとった謎解きの物語が幕を開けます。
ジョン・ディクスン・カーが二十代で書き上げた長編デビュー作『夜歩く』は、のちにこの書き手の代名詞となる、血なまぐさく妖しい作風がはじめて姿を現した一冊です。
著者について
本作はカーの処女作にあたります。「単調で退屈ということは許されざる罪悪」——そう言い切ってみせる作家が、満を持して世に送り出したデビュー作でした。
神経質な読者に悪夢をもたらし、謎解きの玄人に頭痛をおこさせられれば——若きカーが掲げたのは、そんな不敵な目標です。そしてその自負は、空回りには終わりませんでした。
『夜歩く』は成功を収め、カーは職業作家として立つことになります。
もう一つ、本作には記念すべき顔があります。パリ警視庁の予審判事アンリ・バンコランが活躍するシリーズの、その第1作でもあるのです。
カーは生涯にわたって、真に傑出した推理小説を書きたいという野心を手放しませんでした。いまだ達成できてはいないと率直に認めながら、それでもいつまでも試みつづけることはできる、と語り残しています。
のちに幾多の作品へと連なっていくその長い挑戦は、まさにこの一冊から歩き出したのです。
物語の入り口
舞台はパリ。物語は、ひと組の結婚を祝う夜から静かに動き出します。
サリニー公爵とルイーズ・ローラン。結ばれたばかりの二人でしたが、その門出に差していたのは、幸福な光ばかりではありませんでした。
ルイーズにはかつての夫がいて、その元夫の影が、婚礼の夜に不穏な脅威となって忍び寄っていたのです。本来なら、生涯でもっとも晴れやかであるはずの夜。
その祝福のただなかへ、消せない過去がひたひたと差し込んでくる——その気配だけで、物語の温度はいつのまにか下がっていきます。
危険を察して二人のかたわらに控えていたのが、予審判事バンコランでした。彼は部下たちとともに賭博場に居合わせ、万一に備えて出入り口に厳重な警戒の網を張ります。
誰がその部屋に入り、誰が出ていくのか。見張りの目は、片時もゆるむことなく注がれていました。
ところが——それほどまでに用心を重ねた、まさにその一室で、恐るべき事件が起きてしまうのです。
きらびやかな賭博場のざわめきと、そこへ音もなく忍び込む死の気配。祝いの夜の高揚と、じわじわにじり寄る不吉さ。
華やぎと背徳、享楽と危うさが隣り合わせに息づく夜のパリ——その街の匂いそのものが、事件の予感を濃くしていきます。読者は厳重な警戒の網の内側に身を置いたまま、その一室で起きた出来事に立ち会うことになります。
安全なはずの場所が、いつのまにかもっとも危うい場所に変わっている。そんな心地に、気づけば捕らえられているはずです。
読みどころ
本作の読みどころは、端正な謎解きの骨格に、劇場じみた妖しさが分かちがたく溶け合っているところです。 カーはフランスへ留学した経験を持ち、その体験が作品の背景には色濃く流れています。
とりわけ効いているのが、グラン・ギニョール——観客を怖気だたせる、血なまぐさい見世物芝居の趣向です。書割のように濃密な暗がり、退廃した空気、ぞくりと肌を撫でる怪奇の手ざわり。
それらが謎そのものを深く染め上げていきます。
後年のカーは、怪奇と本格を溶け合わせた作風で広く知られていく書き手です。その源流がまさにここにある——そう思って頁をめくると、一つひとつの場面が違った奥行きを帯びて見えてくるはずです。
怪奇の気配は、単なる飾りではありません。ぞくりとする雰囲気そのものが、謎に手ざわりと重みを与え、読み手を物語の奥へと引き込む力になっている。
そこが、若書きの一作でありながら、この作品を侮れないものにしています。
加えて、名探偵バンコランに手を引かれ、謎の奥へ分け入っていく愉しみも忘れてはなりません。難事件を前にして少しも動じないこの探偵に導かれるまま、読者は妖しい夜のパリを歩き、事件の核心へとゆっくり近づいていきます。
自分の足で手がかりを追うというより、頼もしい案内役の背を追いかけていく——名探偵の推理に身をゆだねる、あの古典的な悦びが、ここにはたっぷりと用意されています。
妖しく退廃した空気や、怪奇の彩りをまとった謎解きに心惹かれる読者には、これ以上ないほど誂え向きの一冊です。黄金期ミステリの薫りを、そのいちばん濃いところで吸い込める、またとない機会。
反対に、からりと明るく端正な謎解きだけを求めて開くと、この血のにおいと翳りは、少し重たく感じられるかもしれません。けれど、その濃さこそが本作の身上であり、カーという作家の出発点そのものなのです。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫版が確かです。カーの数ある作品への入り口としてはもちろん、名探偵バンコランの物語の第一歩を踏み出す一冊としても、これほど似合うものはそうありません。
血と妖しさに彩られた黄金期の夜へ、そっと足を踏み入れてみてください。