ミステリーとしての読みどころ
人は、自分が目にしたものを、そのまま正確に語れるのか。ミステリの土台をなす「目撃証言」そのものを疑いにかけ、しかもそれを一編のパズルへと組み上げてみせた作品です。
信じてよさそうな証言ほど食いちがい、確かなはずの記録までもが、謎の中心に据えられていく。読み手の「見る」という行為が、そのまま試される一冊です。
著者について
著者のジョン・ディクスン・カーは、1906年、アメリカのペンシルヴェニア州に生まれました。1930年、予審判事アンリ・バンコランが登場する『夜歩く』でデビューし、以後、名探偵をすえたギデオン・フェル博士のシリーズや、カーター・ディクスン名義のヘンリ・メリヴェール卿シリーズを次々と世に送り出します。
起こりえないはずの不可能犯罪を鮮やかに解体してみせる手つきから、〈不可能犯罪の巨匠〉と呼ばれました。
本作『緑のカプセルの謎』は、そのフェル博士ものの第10作にあたります。原書は1939年に発表され、英国では The Black Spectacles の題でも知られる一冊。
数々の不可能犯罪を手がけてきた作家が、ここでは犯罪の仕掛けそのものよりも、「人はほんとうに見たとおりに証言できるのか」という一点へ照準を合わせています。円熟期のカーが、より人間くさい謎に正面から挑んだ物語です。
物語の入り口
舞台は、英国の小さな村ソドベリー・クロス。平穏なはずのこの土地を、まず陰惨な出来事が襲います。
地元の菓子店に並んでいたチョコレート・ボンボンに毒が混ぜられ、それを口にした者のなかから死者が出てしまうのです。誰が、何のために。
村は不安と疑心に覆われていきます。
その空気のなかで、村の実業家マーカス・チェズニーが奇妙な提案を持ち出します。彼の持論は、「人の目撃証言などあてにならない」というもの。
同じ出来事を目にしても、人によって語ることはまるで食いちがう、と。そして彼は、それをただの意見にとどめず、家族や関係者を前に、その場で証明してみせようとします。
自ら演出した短い寸劇を演じ、それを見た者たちの証言がどれほどずれるかを、目の前で検証しようというのです。証明のための舞台は、いかにも用意周到に整えられていきます。
集まった顔ぶれ、決められた段取り、そして見ている者たちの視線。そのすべてが、のちに交わされるはずの証言の材料でした。
しかも、この一部始終は映画撮影機——シネカメラで記録されることになっていました。証人の記憶にたよらない、動かぬ映像がある。
舞台は万全に整えられたはずでした。ところが、その寸劇のさなか、あろうことか、企てた当人が命を落とします。
透明人間のような風体をした人物に、青酸入りの緑のカプセルを飲まされて。大勢が見つめるなか、しかもカメラが回っているただなかで、です。
そして事件のあと、居合わせた者たちの証言はそろって食いちがい、その一部始終を捉えていたはずのシネカメラの映像もまた、謎の中心へと引き込まれていきます。この不可解きわまる状況に、フェル博士が乗り出していきます。
読みどころ
この作品の醍醐味は、「見る」という行為そのものが、そっくり謎の材料になっているところです。 目の前で起きた出来事を、複数の人間が食いちがって語る。
そこに、一部始終を捉えていたはずの機械の記録までが、謎を構成する一片として加わります。読者もまた、限られた手がかりを前に、どこまでが本当に「起きたこと」なのかを問い直しながら読み進めることになります。
証言を突き合わせ、映像を吟味し、そのすべてを一つの筋道へ束ねていく。推理の楽しさとテーマとが、これほどぴったり重なった作品もそう多くありません。
もう一つ、本作の評判を高めてきたのが、物語のなかでフェル博士が語る、名高い「毒殺講義」の存在です。謎解きの本筋に、こうした読ませどころが要所に配されているのも、円熟期のカーならではの厚みと言えるでしょう。
証言をめぐる知的な組み立てと、名探偵の語りの妙。その両輪で読ませる作りが、本作を「不朽の名作」の位置に押し上げています。
名探偵の推理に身をあずけ、鮮やかな解き明かしを心ゆくまで味わいたい。そんな読者には、まっすぐ薦められる一冊です。
とりわけ、派手な立ち回りよりも、限られた状況を論理でこじあけていく静かな興奮を好む向きには、たまらない作りでしょう。目撃証言というテーマは古びるどころか、記録映像すら真実を保証しない現代にこそ響くもので、いま読んでも古さを感じさせません。
逆に、スピード感のある展開や現代的な語り口を求めると、古典ならではのじっくりした運びは少しまどろっこしく映るかもしれません。ただ、腰を据えて謎と向き合う時間こそが、本作のいちばんの贈り物です。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の新訳がおすすめです。訳は三角和代。
カー『帽子収集狂事件』をはじめ、タートン『イヴリン嬢は七回殺される』などを手がけた英米文学翻訳家で、こなれた日本語でこの古典を届けてくれます。巻末には三橋暁による解説を収録。
〈不可能犯罪の巨匠〉が「証言」という普遍の謎に挑んだ、円熟期を代表する一冊。カーの世界へ足を踏み入れる最初の扉としても、間違いのない選択と言えます。