ミステリーとしての読みどころ
名探偵が口を開こうとする、まさにその手前で、物語がふっと立ち止まります。手がかりはもう出そろっている。
あとは、それを正しくつなぐだけ——さあ、あなたにも解けますか。『エラリー・クイーンの冒険』(原書1934年)は、そんな呼び止めを一冊のうちに何度も食らう短編集です。
読み手が受け身の観客でいることを、この本は許してくれません。
著者について
エラリー・クイーンという署名には、そもそも人が二人います。フレデリック・ダネイ(1905-82)とマンフレッド・B・リー(1905-71)、いとこ同士による合作のペンネームです。
二人は1929年、出版社のコンテストに投じた長編『ローマ帽子の謎』でデビューし、同書を第一作とする〈国名シリーズ〉で頭角を現しました。さらに、当初はバーナビー・ロス名義で発表されたドルリー・レーン四部作でミステリ界に不動の地位を築きます。
作者と同名の名探偵エラリーが活躍する作品を次々と世に送り出す一方、ダネイは雑誌〈エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン〉を通じて多くの作家を紹介し、研究者・アンソロジストとしても足跡を残しました。「アメリカの推理小説そのもの」と評された、巨匠中の巨匠。
本書はその二人が、長編で鍛え上げた厳密な論理をそのまま短編の尺に流し込んだ、記念すべき第一短編集にあたります。
巻頭を飾るのは「アフリカ旅商人の冒険」。犯罪学の講師として大学に招かれたエラリーが、その日起きたばかりの殺人事件をめぐって、三人の学生と推理を競う——そんな一編です。
教室という舞台立てが、この一冊の性格を最初の数ページで宣言してしまうのが心憎いところ。事件は新聞のインクも乾かぬほど新しく、教壇の名探偵と学生たちの前には、まったく同じ材料が並べられます。
誰が先に、正しい結論へたどり着くのか。読者は自然と、その教室の空いた席に腰を下ろすことになります。
以下、「首吊りアクロバットの冒険」「一ペニー黒切手の冒険」「ひげのある女の冒険」「三人の足の悪い男の冒険」「見えない恋人の冒険」「チークのたばこ入れの冒険」「双頭の犬の冒険」「ガラスの丸天井付き時計の冒険」「七匹の黒猫の冒険」「いかれたお茶会の冒険」と、全11編がずらりと並びます。目次を眺めているだけで落ち着かない気持ちにさせられる、奇妙な言葉の連なり。
どの扉から開けたものかと迷うのも、短編集ならではの贅沢な時間です。名探偵による謎解きを満喫させる本格ミステリばかりを集めた一冊で、初刊時の序文も添えられた完全版として編まれています。
そして各編には、この短編集を語るうえで欠かせない作法があります。手がかりはすべて文中に提示され、多くの編では、エラリーが解決を語り出す直前に「読者への挑戦」が差し挟まれるのです。
ここまでの材料で犯人は特定できる、と作者が正面から保証してくる合図。ページの上で、読者と名探偵の立場が一瞬だけ対等になる瞬間です。
そこで本を伏せて考え込むもよし、降参してエラリーの語りに身を任せるもよし。ただ、一度でも挑戦を受けて立ってしまうと、次の編でもつい身構えてしまう。
そういう中毒性が、この構成にはあります。
読みどころ
読みどころは、長編一冊分の推理の骨格が、短編の尺に何度も繰り返し立ち上がるところです。 論理の積み上げで真相を一点に絞り込むという流儀は、本来なら長い助走を必要とするもの。
それを、限られた枚数の中で成立させ、しかも11回やってみせる。一編ごとに、提示・挑戦・解決という手続きがきれいに完結するため、読書のリズムは驚くほど小気味よく刻まれていきます。
分厚い長編に取りかかる時間がなくとも、通勤の往復や寝る前の三十分で、ひとつの推理をまるごと味わい尽くせる。フェアプレイという理念が、これほど純度の高い形で結晶した本はそう多くありません。
そして、負けたときの後味も悪くないのです。読み流していた一行が、解決の段になって急に像を結び直す——その落差を味わえるのは、挑戦を受けて立った者だけ。
黄金期の短編本格を一冊だけ選ぶとしたら、まずここに手が伸びます。
一方で、この本が差し出すのは何より「解かせる」愉しみです。人物の陰影や情感の厚み、じっくり醸成される雰囲気に浸りたい向きには、あっさりしすぎて映るかもしれません。
短編の器は小さく、そこに注がれているのは論理という澄んだ液体だからです。とはいえ、腰を据えて挑む必要もありません。
一編ごとに区切りがつくぶん、気の向いたときに一つ開いて、勝ち負けだけ確かめて閉じる、という付き合い方もできます。むしろ長編のクイーンに手が出せずにいる読者にとって、この短編集はいちばん親切な入り口になるはずです。
手に取るなら
手に取るなら、創元推理文庫の新訳(中村有希訳・2020年)を。中村有希は東京外国語大学を卒業した英米文学翻訳家で、ウォーターズ『半身』『荊の城』、マゴーン『騙し絵の檻』などの訳業で知られます。
同じ訳者でクイーンのデビュー作『ローマ帽子の謎』も読めるため、長編と短編で論理の運び方がどう変わるかを見比べるにも誂え向き。新訳版では旧訳で未収録だった一編も加えられ、初刊時の序文を含めた完全版として仕立て直されています。
巻末には川出正樹氏の解説を収録。名探偵の推理に真正面から挑みたくなったとき、この11編はいつでも待っていてくれます。