ミステリーとしての読みどころ
探偵が駆けつけた先に立っていたのは、ほかならぬ自分の家族でした。兄は殺人の容疑で捕らえられ、しかも被害者は妹の婚約者。
ピーター・ウィムジイ卿がここで挑むのは、赤の他人の謎ではありません。血を分けた身内が当事者となった、逃げ場のない事件です。
名探偵がこれほど心穏やかでいられない幕開けも、そうはないでしょう。
著者について
作者のドロシー・L・セイヤーズは、クリスティと並んで「ミステリの女王」と称されてきた作家です。1893年、オックスフォードに生まれ、同地の大学を卒業したのち、広告代理店でコピーライターとして働きながら筆を執りました。
1923年に発表したデビュー作が、貴族探偵ピーター・ウィムジイ卿もの第一長編『誰の死体?』。そのモダンなセンスはまぎれもなく黄金時代を代表するもので、名作『ナイン・テイラーズ』をはじめ『五匹の赤い鰊』『学寮祭の夜』といった味わい豊かな作品群は、今なお後進に多大な影響を与えつづけています。
本作『雲なす証言』は、そのウィムジイ卿が二度目の登場を果たす、1926年発表の第二長編です。
物語の入り口
舞台はヨークシャーの狩猟小屋です。ある朝、そこでひとつの死が見つかります。
倒れていたのは、ウィムジイ卿の妹レディ・メアリの婚約者。射殺体でした。
そして殺人の容疑で逮捕されたのは、あろうことか卿の兄、デンヴァー公爵ジェラルドその人です。妹は婚約者を喪い、兄は囚われの身となる。
一家をまとめて見舞った二重の打撃に、まさにお家の大事とばかり、ピーター卿はただちに悲劇の舞台へと駆けつけます。
ところが、現地で卿を待っていたのは、輪をかけて厄介な状況でした。頼みの綱であるはずの身内の言葉が、どうにも当てにならないのです。
ふつうの事件であれば、家族の証言は真相へ近づくための確かな足がかりになるもの。ところがこの事件にかぎっては、その証言すらそのまま信じることができません。
誰の話をどこまで信じてよいのか、その物差しからして定まらない。語られる言葉を集めれば集めるほど、事件の輪郭はかえってぼやけていく。
まさに雲をつかむような状況であり、『雲なす証言』という題は、この霧に包まれた事件の姿をそのまま言い当てています。読者もまた確かな足場を与えられないまま、卿とならんで手探りで真相への道を探すことになります。
貴族社会を背景に、探偵自身の家族が事件の当事者となる——この張りつめた設定こそ、初期ウィムジイもののなかで本作をひときわ際立たせているものです。兄の無実を証明すべく、ピーター卿は東奔西走をはじめます。
その道行きに待つのは、冴えわたる名推理ばかりではありません。思いがけない冒険の数々が次々と立ちはだかり、物語は終始、活気に満ちた足取りで進んでいく。
重い題材と、あくまで軽やかな語り口。その取り合わせが本作の持ち味で、安楽椅子の謎解きとはひと味違う、動きのある探偵譚に仕上がっています。
読みどころ
この作品の芯にあるのは、探偵が「安全な傍観者」ではいられないという一点です。 多くの名探偵は、事件の外側から謎を眺めていられる、いわば特権的な傍観者。
けれども本作のウィムジイ卿に、その特権はありません。推理の行き着く先には、兄の運命が懸かっている。
謎を解く一手ごとに、肉親を案じる焦りと痛みがにじみます。身内を信じたい気持ちと、真実を見きわめる探偵の務め。
そのあいだに立つ者の緊張が、謎解きに独特の張りを与えています。論理の遊戯にとどまりがちな探偵小説へ、これほど生々しい情がぬきさしならぬ形で流れ込んでくるところに、本作ならではの手応えがあります。
あわせて、シリーズの助走期に置かれた一編としての面白さもあります。デビュー作『誰の死体?』に続く第二長編であり、ウィムジイ卿という探偵の輪郭がくっきりと立ち上がっていく時期の作品。
のちに長く読み継がれる名探偵が、どんな身のこなしで謎に向き合っていたのか、その原点を緊迫した事件のただなかで確かめられます。
黄金期の英国ミステリを、名探偵の推理に身をあずけて楽しみたい読者には、まっすぐ薦められる一冊です。貴族社会のたたずまい、時代の空気、事件を追う探偵の颯爽とした足取り。
そうした味わいを求める方には、ことのほか相性がよいはずです。反対に、無駄をそぎ落とした現代的なスピード感を第一に求める読者には、こまやかに描き込まれた道行きがいくぶん悠長に映るかもしれません。
とはいえ、その回り道めいた冒険の呼吸こそ黄金期の醍醐味。腰を据えて物語に付き合う時間を惜しまない方なら、満ち足りた読後感が待っています。
手に取るなら
現在の版は、創元推理文庫の浅羽莢子訳です。訳者は東京大学文学部を卒業した英米文学の翻訳家で、キャロル『死者の書』やピーク『ゴーメンガースト』など、幻想味ゆたかな作品を数多く手がけた名手。
その端正な訳文は、貴族探偵の世界にしっくりなじみます。本作はシリーズの第2作。
デビュー作『誰の死体?』でウィムジイ卿と顔を合わせてから読み進めれば、探偵の人となりがいっそう深く立ち上がってきます。黄金期英国ミステリの一編として、また稀代の名探偵の来歴をたどる一冊として、手元に置く価値は十分です。