黄金期米国古典 1951
玄関先の犬の死体が、
宝石商を死に追いやった。
『悪の起源』エラリー・クイーン

書評

悪の起源

不気味な贈り物に怯える宝石商を描く、ハリウッドを舞台にした一作。

悪の起源 表紙画像
エラリー・クイーン 早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫) 原書 1951年 · 邦訳 1976年
目次

差出人のわからない不気味な贈り物が、ある朝、玄関先に置かれている。受け取った者は、理由も告げられぬまま怯えはじめ、やがて死へと追い詰められていく——。

『悪の起源』は、姿の見えない悪意が人の心をむしばんでいく気配を、ハリウッドの陽光の下に描き出した本格ミステリです。原著の発表は1951年。

名探偵エラリイが挑むのは、犯人の顔も、動機も、そもそも何を狙っているのかさえ判然としない、輪郭を持たない脅威でした。

物語の入り口

物語は、一体の犬の死体から動き出します。玄関先に送りつけられたその死体と、そこに添えられた脅迫状。

それが、宝石商のヒルを死へと追いやったらしいのです。何気ない一日の入り口に、突然置かれた無言の悪意。

差出人は名乗らず、要求も判然としません。ただ、受け取った者だけが、その意味を悟って震え上がる。

ふつうのミステリなら、事件は死体の発見とともに大きく動き出すものです。けれど本書は、その手前にある「怯え」の時間そのものを、じっくりと見せていきます。

そして脅威は、そこで途切れませんでした。ヒルの共同経営者であるプライアムのもとにも、意味の読めない不気味な贈り物が、次々と届きはじめます。

一つ、また一つ、そしてまた一つと、途切れることなく。その意味の読めない品々を受け取るたびに、プライアムの顔からは血の気が引いていく。

二人の男を、死ぬほど怯えさせているものは、いったい何なのか。しかもプライアムは、頑としてある一点を語ろうとしません。

かつて自分とヒルとのあいだにあった、過去。その口をつぐんだ沈黙が、事件の全体に重い影を落としていきます。

正体の見えないこの悪意に、論理だけを武器として立ち向かうのが名探偵エラリイです。読者は、贈り物が一つ届くたびに送り主の意図を計りかね、次に何が起きるのかと身構えることになります。

加害の手口が見えないぶん、いつ・どこから・誰に災いが及ぶのか、まるで見当がつかない。その宙づりの不安のなかに置かれたまま、エラリイの推理に肩を並べて付き添っていく。

犯人の姿が最後まで見えないという設定が、ページをめくる手を落ち着かせてくれないのです。

読みどころ

読みどころのひとつは、題名に仕込まれた企みにあります。 『悪の起源』という邦題、そしてその原題は、ダーウィンの『種の起源』をあえてなぞらえたものです。

なぜ「種」ではなく「悪」の起源なのか。巨匠が題名に忍ばせたこの文学的な目くばせは、すぐには答えの出ない問いのかたちのまま、読む者の胸に静かに居座り続けます。

なぜこの物語が、よりによって進化論の大著の名を借りねばならなかったのか。その問いをそっと傍らに置いたまま頁を繰るだけで、この奇妙な脅迫劇はいっそう味わい深いものになるはずです。

もう一つの読みどころは、その論理が相手取るものの異様さです。手がかりを積み上げて真相へ迫る本格の骨法は、本作でもきちんと貫かれています。

けれど、その推理が向き合う相手は、姿も動機も見せてくれない。整然とした理知と、得体の知れない不気味さ。

この相反する二つが一つの物語のなかに同居しているところに、本書ならではの手ざわりがあります。冷たく澄んだ論理が照らし出そうとするのが、じっとりと湿った悪意だという緊張感が、最後まで途切れません。

手がかりは読者の前にも差し出されていますから、名探偵とまったく同じ材料を手にして、姿なき相手の輪郭を自分の頭でも探ってみることができます。

こんな人におすすめ

論理で真相へ迫っていく古典的な謎解きを、腰を据えて味わいたい読者に、まっすぐ薦められる一冊です。加えて、明るく整った事件よりも、正体不明の悪意がまとわりついてくるような、じっとりした不安の物語を好む人には、とりわけ深く響くはずです。

逆に、テンポよく事件が転がっていく軽快さを第一に求めると、気配を少しずつ積み上げていく前半は、いくぶんもどかしく感じられるかもしれません。その静かな助走こそが本書の持ち味なのだと思って読み進めると、後半の手応えがいっそう際立ちます。

作品の背景

本書はエラリー・クイーンが、舞台をハリウッドに移して書いた一作です。華やかな映画の都と、じわじわと忍び寄る死の影。

その取り合わせ自体が、すでにこの物語の不穏さを予感させます。

手に取るなら

現在手に取るなら、青田勝訳がハヤカワ・ミステリ文庫で読めます。ハリウッドを舞台にした、黄金期アメリカ本格の異色の一作。

姿なき脅迫者と、それに論理だけで挑む名探偵の静かな対決を、じっくりと味わいたい夜にこそふさわしい物語です。

エラリー・クイーンについて

エラリー・クイーンは、フレデリック・ダネイ(1905〜82)とマンフレッド・B・リー(1905〜71)、いとこ同士の二人が用いた合作のペンネームです。作中で謎を解く名探偵にも、同じ名が与えられています。

二人は1928年、出版社と雑誌が募った長編の懸賞に『ローマ帽子の謎』を投じ、翌1929年の刊行でデビューしました。以後、題名に国名を冠した〈国名シリーズ〉を書き継ぎ、1932年から翌年にかけてはバーナビー・ロス名義でドルリー・レーン四部作も発表しています。

ダネイは1941年に〈エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン〉を創刊して長く編集にあたり、多くの書き手を世に送り出しました。二人はアンソロジストや短編ミステリの研究者としても仕事を残し、1961年にはアメリカ探偵作家クラブ(MWA)のグランドマスター賞を受けています。

書誌情報

出版社
早川書房 / ハヤカワ・ミステリ文庫
原書刊行年
1951
邦訳刊行年
1976
ISBN-13
9784150701093
系譜
黄金期米国古典 / 名探偵もの · シリーズ探偵物

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この記事を書いた人

リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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