被害者で、証人。
シンデレラの罠
記憶を失った"わたし"は誰なのか。技巧の限りを尽くしたフランス・ミステリの傑作。
探偵であり、犯人であり、被害者であり、証人でもある——たった一人の人物が、それだけの顔を一身に背負ってしまう。版元がそう謳って世に送り出した一冊が『シンデレラの罠』です。
火事に巻き込まれて大火傷を負い、顔を焼かれ、記憶までも失った主人公。自分がいったい何者なのかさえ判然としないまま、ただ一人の生き残りとして事件の只中に立たされます。
技巧の限りを尽くした構成で知られる、現代フランス・ミステリの傑作です。
物語の入り口
物語の中心にいるのは、ミ、あるいはミシェルと呼ばれる若い女性です。ある一夜の火事が、その運命を根こそぎ変えてしまいました。
炎に巻き込まれて大火傷を負い、顔を焼かれ、皮膚移植を重ねてかろうじて一命をとりとめた主人公。けれども、同じ場に居合わせたもう一人——ド、すなわちドムニカは、この火事で命を落としています。
生き延びたのは、ただ一人。つまり、その晩に何が起きたのか、そのなにもかもを知りうる者は、この世にもう彼女しか残されていないことになります。
ところが、肝心の当人の記憶は、火に焼かれた顔とともに、すっぽりと抜け落ちてしまっているのです。証言できるはずの唯一の人間が、証言すべき記憶を持たない。
そこに、この物語のねじれた出発点があります。
そこから、ひとつの問いが静かにせり上がってきます。周囲の人々が口をそろえて言うように、彼女は本当に、大金持ちの伯母から莫大な遺産を相続するはずのミなのでしょうか。
それとも——焼け死んだのがそのミで、生き延びたのはもう一人のほう、つまりドムニカなのではないか。名前も、来歴も、そして遺産の行方までもが、たった一人ぶんの失われた記憶の上に、危うく宙づりにされています。
自分が誰であるのかを、鏡でも記憶でもなく、他人の口から手渡される言葉によってしか確かめられない。ひとつ名前が変われば、受け取るはずの遺産も、これまで生きてきた人生も、まるごと別のものに入れ替わってしまう。
そんな居心地の悪い足場に、読者もまた主人公と肩を並べて立たされることになります。答えを高みから見下ろすのではなく、記憶を欠いた当人のかたわらで、同じ心細さをそっくり分け持たされるのです。
読みどころ
探偵・犯人・被害者・証人——この四つの顔が一人の人物に重なるという惹句こそ、本作の読みどころを何より雄弁に言い当てています。 名をめぐるこの謎が、どれほど深いところまで根を張っているのか。
ジャプリゾはそのアイデンティティの謎を、技巧の限りを尽くした構成で丹念に組み上げました。その手つきの緻密さゆえに、本作は数あるフランス・ミステリのなかでも、とりわけ"技巧派"の代名詞として名を呼ばれ続けてきたのです。
何が仕込まれているかを知らないまま、まっさらな状態でページを開けること自体が、この本にめぐり会う読者に許された小さな幸運だと言ってよいでしょう。
こんな人におすすめ
相性の話をすれば、手がかりを一つずつ拾い上げて犯人を絞り込む、純然たるパズル型の謎解きを第一に求める読者には、少し毛色が違って映るかもしれません。本作が差し出してくるのは、"誰が何をしたか"よりも前に、"そもそも自分は誰なのか"という足場そのものが揺らいでいく感覚だからです。
記憶をめぐる謎、輪郭の定まらない不安、そしてそこに凝らされた技巧——そうしたものに心が動く読者にこそ、この一冊はまっすぐ届くはずです。逆に、頼れる名探偵の視点に腰を据えて、安心して真相へ運ばれていきたいという向きには、この宙づりの浮遊感は好みの分かれるところかもしれません。
作品の背景
セバスチャン・ジャプリゾが本作を世に問うたのは1962年、その年のフランス推理小説大賞に輝きました。ジャプリゾの作品のなかでも本作は、「ミステリ史上燦然と輝くマニア必読の傑作」と版元が胸を張って推すほどの、代表作にして到達点と呼べる一冊です。
手に取るなら
手に取るなら、創元推理文庫の平岡敦による新訳版がおすすめです。原書の刊行からおよそ半世紀を経て新たに訳し直された一冊で、巻末には訳者あとがきも添えられていて、作品への理解をやさしく助けてくれます。
平岡敦は、グランジェ『クリムゾン・リバー』やビュッシ『恐るべき太陽』、カダレ『誰がドルンチナを連れ戻したか』、カサック『殺人交叉点』などを手がけてきたフランス文学の翻訳家です。その端整でこなれた訳文に導かれて、半世紀を越えてなお読み継がれてきた技巧の傑作を、いま新たな一人の読者として、まっさらな気持ちで味わうことができます。
旧さを感じさせない語り口で、フランス・ミステリの奥行きへ踏み込むための格好の一冊になるはずです。
セバスチャン・ジャプリゾについて
セバスチャン・ジャプリゾは1931年に南仏マルセイユで生まれ、2003年に亡くなったフランスの作家です。筆名は本名ジャン=バティスト・ロッシのアナグラムで、本名では高校時代に書いた小説を1950年に刊行して若くして世に出ました。
その後はサリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』の仏訳や広告の仕事を手がけています。
税の支払いに追われていた1960年代の初め、編集者の友人に勧められて推理小説に手を染め、1962年に『寝台車の殺人者』と『シンデレラの罠』を相次いで発表しました。後者でフランス推理小説大賞を受け、『新車のなかの女』『殺意の夏』と書き継ぎ、第一次世界大戦を背景にした『長い日曜日』ではアンテラリエ賞を受けています。
映画にも深く関わり、『さらば友よ』『雨の訪問者』などの脚本を書きました。長編のほとんどが映画化されています。
書誌情報
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