ミステリーとしての読みどころ
生まれてこのかた一度も訪れたことのないはずの土地で、すれ違う人がみな自分を知っている——。もしそんな状況に置かれたら、目の前の世界のたしかさそのものが、静かに揺らいでいくのではないでしょうか。
『新車のなかの女』は、一人の女性がふとした思いつきから踏み込んだ道の先で、その名づけようのない不安に少しずつ絡めとられていくフランス・サスペンスです。読者を巧みに欺く構成で知られる、技巧派の一作。
著者について
著者のセバスチャン・ジャプリゾは、1931年に南仏マルセイユで生まれ、2003年に世を去ったフランスの作家です。犯罪小説の枠のなかで、読み手の予想をていねいに裏切っていく技巧の冴えで名を残しました。
『シンデレラの罠』でフランス推理小説大賞を受け、その後も『殺意の夏』でドゥ・マゴ賞、『長い日曜日』でアンテラリエ賞と、フランスの名だたる文学賞を渡り歩いた書き手でもあります。ミステリという言葉が持つ大衆的な響きと、フランス文学の批評的な洗練とを、同じ一冊のなかで両立させてしまう。
そんな稀有な立ち位置にいた作家です。娯楽としての緊張感を手放さないまま、文章そのものの手ざわりや構成の精度で読者を唸らせる——その両面を一人で担えたところに、ジャプリゾがいまも読み継がれる理由があります。
本作『新車のなかの女』が世に出たのは、1966年のことでした。
物語の入り口
物語は、ごくささやかな寄り道から動き出します。主人公の女性は、雇い主から新車を空港へ送り届けるよう頼まれていました。
頼まれた仕事はそれだけ。車をしかるべき場所に置いてくれば、彼女の役目は終わるはずでした。
ところが、ハンドルを握った彼女の胸に、ふとした思いつきが芽生えます。このまま、南仏まで走らせてしまおうか——。
禁じられているわけでもない、けれど頼まれてもいない、その一歩。真新しい車の座席に身を沈め、彼女は光あふれる南へと車を走らせはじめます。
ここまでなら、ちょっとした逸脱の甘美さを描いた、開放的な道行きの物語にも見えるでしょう。
けれど、風向きが変わります。初めて訪れたはずのその土地で、彼女はある違和感に足をすくわれるのです。
立ち寄る先々で、出会う人々が、なぜか彼女のことを知っている。会ったこともないはずの相手が、当然のように彼女を見知った者として扱う。
まるで、彼女がすでに一度この道を通り過ぎてしまったかのように。身に覚えのない既視感が、行く先々で彼女を待ち構えている——その不気味さが、明るい南仏の陽射しのなかでかえって際立ちます。
問いかけても手応えのある答えは返らず、確かめようとするほどに、状況はいっそう入り組んでいきます。そしてやがて、謎の死体が発見される。
ここから、あてどない小さな逃避行だったはずの旅は、彼女自身にも底の見えない出来事へと姿を変えていきます。読者は、彼女の困惑をそっくり分け持たされたまま、確かなものが一つずつ足元から抜き取られていく道行きに付き添うことになります。
読みどころ
この作品の醍醐味は、状況説明の巧みさそのものにあります。 何が起きているのかを性急に明かすのではなく、わからなさの手ざわりをこそ丹念に描く。
読者は主人公とともに旅の道すがらに立ち、目にする光景の意味が頁を追うごとに静かに深まっていくのを、息を詰めて見届けることになります。フランス・ミステリならではの語りの技巧を、じっくり味わいたい方に向く一冊と言えるでしょう。
派手な仕掛けを外側から眺めるのではなく、絡めとられる側の心もとなさを内側から生きる——その体験こそが、ジャプリゾという作家の真骨頂です。
こんな人におすすめ
相性の面で言えば、明示された手がかりを一つずつ拾い上げて犯人を割り出す、パズル寄りの謎解きを求めて読むと、少し肌合いが違って感じられるかもしれません。本作が差し出すのは、盤面を上から見下ろす快感よりも、状況の内側で足場を失っていく不安と、その霧が晴れていく感覚のほうです。
逆に、雰囲気で読ませる犯罪小説が好きな方、確かだと思っていた前提が静かに崩れていく読み心地に惹かれる方には、まっすぐ届く一冊でしょう。じりじりとした宙ぶらりんの時間に身を委ねられる読者ほど、この作品の魅力を深く味わえるはずです。
手に取るなら
入手は創元推理文庫版で、平岡敦による新訳が収められています。訳者の平岡敦は1955年生まれ、早稲田大学文学部を卒業し、中央大学大学院を修了した翻訳家です。
カダレ『誰がドルンチナを連れ戻したか』、グランジェ『クリムゾン・リバー』、ビュッシ『恐るべき太陽』など、フランス語圏の作品を数多く手がけてきました。同じ平岡訳ではジャプリゾの『シンデレラの罠』も読めますので、本作の読み心地が気に入ったなら、続けて手に取ってみるのもおすすめです。
半世紀を越えて新訳で甦った、フランス技巧派サスペンスの代表作です。ぜひ腰を据えて、その静かな迷宮にじっくりと踏み込んでみてください。