ミステリーとしての読みどころ
古い領主邸を改装したホテルの、深い闇の底から響いてくる子供の悲鳴。助けを求めるその声を確かに聞いたはずなのに、返ってきたのは思いもよらない一言でした。
その子は、一年以上も前にこのホテルで亡くなっているのだ、と。黄金期英国が生んだこの一編は、こんなにも不穏な発端から静かに立ち上がります。
著者について
作者のイーデン・フィルポッツは、1862年にインドで生まれ、イギリス本国で教育を受けた人物です。事務員などを経て文筆の道に入り、生涯にわたって膨大な数の作品を残しました。
推理小説だけでなく、田園を描いた小説、戯曲、詩まで手がけた、まさに多面的な大家です。書き手としての足場が英国の田舎の風土に深く根を張っていたことは、本作のような物語を読むとよく分かります。
屋敷の空気、庭の気配、夜の静けさ――そうした情景を描かせると、この人の筆はにわかに精彩を帯びるのです。
ミステリの分野で今なお読み継がれているのは、なんといっても『赤毛のレドメイン家』でしょう。江戸川乱歩がその読書体験を「万華鏡」に譬えて絶賛し、探偵小説ベスト10の第1位に選んだことで名高い傑作です。
本作『闇からの声』は、原著が1925年に世に出て以来、そのレドメイン家と並べて語られてきた代表格の一編。フィルポッツという書き手の実力を測るうえで、避けて通れない位置にある作品なのです。
物語の主人公は、隠退した名刑事リングローズ。現役を退いた彼が、旧知の友人が営む古い領主邸ホテルに、休暇の骨休めのために足を運ぶところから幕が上がります。
長年の事件からようやく解放され、静かな田舎で羽を伸ばすはずだった滞在。ところが、その安らぎは初日から裏切られます。
深夜、彼はどこからともなく、恐怖におののく子供の悲鳴を聞くのです。助けを求めるその声は、確かに耳に届いた。
けれど姿はどこにもない。
不審に思ったリングローズが事情を調べてみると、同宿の老婦人から、予想だにしない事実を告げられます。「その子供は亡くなったのですよ。このホテルで、一年以上も前に」。
ありえないはずの声と、動かしがたいはずの事実。そのあいだに横たわる裂け目に、引退したはずの元刑事の勘が疼き出します。
休暇に来たはずの男が、気づけばひとつの謎の前に立っている。彼は、この不可解な声の正体を突き止めようと、静かに調べを進めていくことになります。
読者はここで、リングローズのすぐ隣に立たされます。声を聞いてしまった者の当惑と、それを説明しようとする理性のせめぎ合いを、彼と一緒になって味わうことになるのです。
あの声は本当に聞こえたのか。老婦人の言葉は正しいのか。
そもそも、この静かな田舎屋敷で何が起きているのか。答えの出ない問いを抱えたまま、読者もまた眠れない夜のホテルに閉じ込められます。
読みどころ
この作品の芯は、謎解きの妙味よりもむしろ、張り詰めた空気そのものにあります。 不気味な発端から一貫して、フィルポッツは緊張の糸をゆるめません。
何かが起きそうで起きない、その宙ぶらりんな時間が、じわじわと読み手の神経に触れてきます。名門の田園を舞台にしながら、そこに漂うのは牧歌的な明るさではなく、得体の知れない翳り。
パズルの精度を競うタイプの本格とはまた違う、心理の綱引きに引き込まれていく読書です。声の正体をめぐって理性と不安が拮抗し続けるこの感触こそ、本作がレドメイン家と並び称される理由の一端でしょう。
もうひとつ書き添えておきたいのは、この不安が読む者の胸から容易に去らない、その粘り強さです。読者は序盤で提示された不可解を、長いあいだ抱えつづけることになります。
その重さに耐えながらページをめくる時間は、決して快適ではありません。けれど、その居心地の悪さこそが本作の醍醐味であり、フィルポッツが読者に手渡そうとしたものにほかならないのです。
こうした読み味は、書き手の好みがはっきり出る領域でもあります。そのぶん、明快な論理の積み上げをきびきびと辿りたい読者には、この静かで粘るような語り口が少しまだるっこく感じられるかもしれません。
事件がどんどん動いていく派手な展開を期待して開くと、拍子抜けする瞬間もあるでしょう。けれど、謎の解ける快感よりも、謎に包まれている時間そのものを愉しみたい人には、これ以上ない一編です。
田舎屋敷の闇と、そこに響く声のこわさに身を委ねる。そういう読み方を求める夜にこそ、この物語は本領を発揮します。
心をざわつかせる不安を、あえて味わいにいく――そんな贅沢な読書に応えてくれる作品です。
手に取るなら
現在手に取るなら、創元推理文庫の一冊(2013年刊)が入り口になります。『赤毛のレドメイン家』の名にひかれてフィルポッツを読んできた人はもちろん、黄金期英国のミステリが持つ独特の湿り気を味わってみたい人にも、静かに薦められる作品です。
声なき声のこわさを、ぜひ暗がりの中で確かめてみてください。