ミステリーとしての読みどころ
十九世紀末のロンドンを、深い霧が覆っています。街灯の光さえにじませるその白い闇の底で、夜ごと女たちが命を奪われていく。
同じ時代のどこか遠い村では、十年前に起きた密室殺人が、いまだ解かれないまま一人の男を捉えて離さない。国のあちらとこちらで、一見なんの関わりもなさそうな二つの謎が、それぞれの時間を刻んでいます。
その二筋の糸が、やがて一本に撚り合わさっていく——それが『赤い霧』(原題 Le Brouillard rouge)の入り口です。
著者について
著者のポール・アルテは、フランスの本格ミステリを語るうえで欠かせない名前です。ジョン・ディクスン・カーに私淑し、不可能犯罪と密室の趣向を現代によみがえらせた作風から、「フランスのディクスン・カー」と呼ばれてきました。
黄金期の探偵小説が備えていた謎の華やかさと、そこに漂う怪奇の気配。その両方を惜しみなく受け継ぐ書き手です。
本格の黄金時代がとうに過ぎ去り、犯罪小説の重心が心理や社会へと移っていったあとの時代に、あえて手がかりと論理の謎解きへと立ち返っていく。その黄金期への回帰の姿勢こそが、アルテという作家の芯にあります。
日本の読者からも早くから熱い支持を集め、〈本格ミステリ・ベスト10〉では二年連続でベスト1に輝きました。本作はそんなアルテが一九八八年に発表した一編で、フランスの冒険小説大賞を受賞しました。
邦訳は二〇〇四年、ハヤカワ・ポケット・ミステリから。アルテの代名詞であるツイスト博士は登場しない、独立した物語です。
物語の主な舞台は、切り裂きジャックの影がよぎる世紀末のイギリスです。まず一つの筋が、十年前の密室殺人へとさかのぼります。
かつて村で起きたその事件は、いまなお謎のまま残されていて、一人の男がその解けない結び目をほどこうと過去へ分け入っていく。もう一つの筋は、現在のロンドンにあります。
霧に沈む夜の街で、娼婦たちが次々と殺されていくのです。切り裂きジャック事件をまざまざと思い起こさせる、その連続殺人。
時代そのものが抱えていた不安と暗さが、事件の背後にどんよりと立ちこめています。過去の村と現在のロンドン、閉ざされた密室と開かれた街路——舞台も、時も、事件の様相も、まるで違う二つの謎が、はじめは別々の物語として進んでいきます。
読み進めるうちに、その二本の線が少しずつ近づいていくのが感じられます。無関係に見えたはずの出来事の間に、思いがけない照応が浮かび、片方の謎を見つめる目が、いつしかもう片方の輪郭までとらえはじめる。
読者は、二つの事件を同時に手のひらに載せながら、それらがどこで交わるのかを測りかねたまま、霧の奥へと歩を進めることになります。この、答えの見えない宙ぶらりんな時間こそが、本書のいちばんの引力です。
ページをめくる手が止まらなくなるのは、事件の凄惨さゆえではなく、「この二つは、いったいどうつながっているのか」という問いが、読み手の裡でふくらみつづけるからにほかなりません。
読みどころ
読みどころは、質の異なる二つの謎を一つの物語に編み上げていく、その構築の妙にあります。 村の密室という、いかにも本格らしい閉じた謎。
そしてロンドンの連続殺人という、時代の闇を映した開かれた謎。この対照的な素材を、アルテは一枚の絵として組み上げていきます。
カーに私淑してきた作家らしく、不可能犯罪の骨格はきわめて端正で、謎解きとしての手応えは十分です。異なる方角から差し出された二つの謎を、読者の前で少しずつ一枚の絵に重ねていく手つきには、黄金期の探偵小説を知り尽くした書き手ならではの周到さがあります。
同時に本書には、明るく軽やかな探偵小説とは異なる、重く翳った肌ざわりがあります。霧、貧困、そして人の命がたやすく消えていく街の空気。
世紀末ロンドンの陰鬱さが物語全体を浸していて、それが謎に独特の暗さと厚みを与えています。論理の面白さを追いながら、いつのまにか時代の闇そのものに引き込まれている。
そんな読後感を残す一作です。
密室や不可能犯罪の趣向を愛する読者、そしてカーの系譜に連なる本格を現代の書き手で味わいたい読者には、まっすぐ薦められる一冊です。二つの事件が交錯していく構成そのものを楽しめる人なら、なおのこと惹き込まれるはずです。
逆に、からりと晴れやかな謎解きや、明快で軽い読み心地を求めて開くと、この霧のような暗さと重さは少しこたえるかもしれません。ただ、その翳りは欠点ではなく、世紀末という時代を舞台に選んだこの物語の芯そのものです。
手に取るなら
手に取るなら、ハヤカワ・ポケット・ミステリの一冊として読めます。シリーズものではないので、アルテの他の作品を知らなくても、この一冊だけで完結した物語として味わえるのがうれしいところ。
フランス本格の到達点の一つに触れてみたい人にとって、これほど確かな入り口はそうありません。霧の深い夜に、二つの謎がひそやかに近づいていく気配を、ぜひ味わってみてください。