ミステリーとしての読みどころ
1921年12月、英領カルカッタ。阿片窟の薄暗がりでキセルの夢に溺れていた英国人警部が、警察のガサ入れに叩き起こされます。
転がるように逃げ出したその先で、両眼をえぐられ腹を刺された男が目の前に現れ、そのまま息を引き取る。ところが翌日になっても、その死体を見たという者はどこにもいません。
自分が確かに見たはずのものを、自分で信じきれない。『阿片窟の死』は、そんな心もとない一点から動き出す歴史ミステリです。
著者について
著者はアビール・ムカジー。英領インド期のカルカッタを舞台に、インド帝国警察の英国人警部ウィンダムと、相棒のインド人部長刑事バネルジーが事件を追うシリーズを書き継いできた作家です。
本書(原題 Smoke and Ashes)は2018年に発表されたシリーズ第3弾。日本では2022年にハヤカワ・ミステリから邦訳が刊行されました。
傑作歴史ミステリと呼ばれるこの連作の面白さは、事件の謎と、その謎が置かれた時代の空気とが、どうやっても切り離せないところにあります。
統治する側の英国人警部と、統治される側のインド人部長刑事。この凸凹の二人組は、帝国の非対称を身体に負ったまま同じ事件を追うことになります。
舞台の異国情緒は、ここでは背景の飾りにとどまりません。事件を解こうとすることが、その土地で誰が誰を裁けるのかという厄介な問いに触れてしまう。
歴史ミステリという看板の重みは、そのあたりに宿っています。
物語の入り口
物語は、阿片窟の一隅から始まります。インド帝国警察の警部という立場にありながら、ウィンダムはキセルをくわえ、夢の底に沈んでいる。
そこへ、よりにもよって警察のガサ入れが入ります。ここで捕まればどうなるかは、誰よりも本人がわかっているのでしょう。
煙のこもった暗がりを、慌てて掻き分けるようにして逃げ出す。警察官が警察から逃げるというこの一場面だけで、本作の主人公がどれほど危うい足場に立っているかが伝わってきます。
物語の入り口に立っているのが、法を執行する側でありながら足元の崩れた男だという事実は、このあと起こることすべての見え方を変えていきます。
逃走の途中、ウィンダムはそれに行き当たります。両眼をえぐられ、腹を刺された男。
男はウィンダムの眼前でこと切れます。朦朧とした頭のまま、それでも警察官として見るべきものは見た——はずでした。
ところが翌日、その死体を見たという目撃情報はどこからも上がってきません。阿片が見せた幻だったのか。
自分の目と記憶が初めから当てにならないのだとしたら、いま追いかけようとしているものはいったい何なのか。読者はその揺らぎをウィンダムと分け合ったまま、彼の足取りの半歩後ろについていくことになります。
やがて、別の場所で同様の死体が発見されます。幻であってくれたほうがいっそ楽だったはずの光景が、こうして現実の事件として警察の前に据え直される。
折しもカルカッタは、英国皇太子とガンジーの側近の訪問を控えて、独立運動が激しさを増していく最中にありました。街ぜんたいが張り詰めていくその只中で、ウィンダムと相棒のバネルジーは、この奇妙な連続殺人の謎に取りかからねばなりません。
時期が悪い、という言い方ではとても追いつかない悪条件です。
読みどころ
読みどころは、探偵役がまとう弱さが、そのまま謎の手ざわりに食い込んでくるところにあります。 自分の見たものを疑わなければならない目撃者が、同時にその事件を解く側でもある。
この一点があるだけで、序盤の出来事の重みは、よくある連続殺人の幕開けとは別のものになります。加えて、両眼をえぐるという手口の異様さが、事件の輪郭を最初から不穏な方向へ押しやる。
なぜそんな真似をする必要があったのか。その問いは、読者が最後まで手放せない一本の糸になります。
もうひとつは、時代そのものが捜査の抵抗になっていること。皇太子の訪問と独立運動の高まりが重なった街では、警察が動くという行為自体が政治的な意味を帯びてしまいます。
英国人とインド人の凸凹コンビは、同じ事件を追いながら、それぞれ別の場所で肩身の狭さを引き受けることになる。歴史ミステリを読む楽しみは、多くの場合、その時代でしか成り立たない捜査の不自由さを味わうところにあります。
本作はその不自由さを、謎解きの手応えごと差し出してくる一冊です。
こんな人におすすめ
相性をいえば、颯爽とした名探偵が一撃で霧を晴らす読み味を期待する読者には、この物語の歩みはいくらか重く映るかもしれません。主人公は万全からほど遠く、街も味方をしてくれない。
その代わりに、異国の空気と歴史の圧を浴びながら事件を追う時間の濃さは格別です。遠い時代の遠い街に腰を据えて読みたい読者、探偵と相棒の関係の機微をじっくり味わいたい読者には、迷わず薦められます。
手に取るなら
現在の版はハヤカワ・ミステリ(2022年刊)。ウィンダムとバネルジーのシリーズ第3作にあたり、手前には『カルカッタの殺人』『マハラジャの葬列』の2作が控えています。
前作までを追ってきた読者はもちろん、まずこの一冊で1921年のカルカッタの空気に触れ、そこから順にさかのぼる読み方も十分に成り立つはずです。読み終えたころには、この街をもう少し歩いてみたくなっているのではないでしょうか。