ミステリーとしての読みどころ
1920年6月、英国統治下のカルカッタで、藩王国サンバルプールの王太子が暗殺されます。凶行におよんだ者は、居合わせたインド帝国警察の英国人警部の目の前で、自ら命を絶ちました。
なぜ王太子でなければならなかったのか——その問いに答えられるはずの唯一の人間が、事件の始まりと同時に失われてしまったことになります。手元に残るのは、重すぎる被害者と、動機の空白だけ。
ここから始まるのは、はるか遠い王宮の門をくぐっていく捜査の物語です。
著者について
作者はアビール・ムカジー。本書(原題 A Necessary Evil)は、インド帝国警察の英国人警部ウィンダムと、相棒で同居人のインド人部長刑事バネルジーが事件を追う連作の第2作にあたります。
原書の刊行は2017年、邦訳は2021年にハヤカワ・ミステリから。英国人とインド人の刑事コンビが、独立の気運に揺れるインドを歩く——この設定そのものが、すでに物語の半分を語っているようなところがあります。
本作はウィルバー・スミス冒険小説賞を受けています。冒険小説の名を冠した賞が歴史ミステリに贈られたと聞くと少し意外に響くかもしれませんが、読み進めれば得心がいくはずです。
事件を追うことが、そのまま見知らぬ土地の奥へ分け入る旅になっている。謎解きの緊張と、異国を進む高揚とが同じ一本の線の上に並んでいて、どちらか片方だけを取り出すことができません。
物語の入り口
事件は、1920年6月のカルカッタで起こります。英国の統治下にありながら、なお王太子を戴く藩王国サンバルプール。
その次代を担うはずの人物が、カルカッタで命を奪われるのです。しかも実行犯は、ウィンダム警部の目前で自ら死を選びます。
取り調べも、自白も、法廷での追及もない。事件は、始まった瞬間に一度固く閉じてしまいます。
手を下した人物は確かに目の前にいた。それでも、その人物からなぜという答えを引き出す機会は永久に失われている。
捜査の出発点としては、これ以上ないほど厄介な形です。
ウィンダムはバネルジーと共に、真相を追ってサンバルプールへ向かいます。カルカッタでの職権がそのまま通じる場所ではありません。
王宮には王宮の流儀があり、その独特な慣習が捜査の行く手をふさぎます。誰に何を聞けるのか、そもそも聞いてよいのか。
警察官として当たり前にできたはずのことが、門の内側では一つひとつ交渉を要する手続きへ姿を変える。翻弄される、という言葉がふさわしい難航ぶりです。
読者もまた、勝手の分からない宮廷の廊下を、二人の背中越しに手探りで進むことになります。
そして捜査のさなか、さらなる暗殺事件が起こります。ひとつの死で終わらなかったことで、事件の輪郭は大きく描き替えられていく。
加えて、背後には英国諜報機関の影がちらつきはじめます。統治する側の機関が事件のどこかで動いているのだとすれば、英国人であるウィンダムの立ち位置は単純ではいられません。
独立の気運が高まりつつある時代のインドで、英国人の警部とインド人の部長刑事が肩を並べて真相を追う——その構図の重さが、ここで一気にせり上がってきます。
読みどころ
読みどころは、捜査そのものが異文化の作法との交渉になっているところにあります。 手がかりを集める前に、まず誰の許しを得るかを考えなければならない。
この一手間が、単なる障害物にとどまらず、その土地の成り立ちを読者に教える装置としても働きます。宮廷のふるまいの一つひとつに、統治する側とされる側の関係がにじむ。
事件を追えば追うほど、1920年のインドという場所の輪郭がくっきりしていきます。歴史ものの背景説明を退屈に感じた経験がある読者ほど、この作りは肌に合うはずです。
コンビの造形も、この作品の推進力です。英国人の警部と、インド人の部長刑事。
同じ事件を前にしても、見えているものと動かせるものが同じではありません。二人の視野の差が、そのまま捜査の網の目を細かくしていきます。
相棒であり同居人でもある関係の呼吸は、張り詰めた場面の合間にちょうどいい息継ぎを与えてくれます。
こんな人におすすめ
相性をいえば、精緻な仕掛けの手ざわりだけを一直線に味わいたい読者には、道中の描写がゆったりと感じられる場面があるかもしれません。本作の重心は、謎解きの手応えと同じだけの熱量が異国の空気と時代の緊張にも注がれている点にあります。
ミステリを読みながら知らない土地を旅したい読者、歴史の大きな流れのなかで人が殺される理由を見たい読者には、これ以上ない一冊です。冒険小説の賞が贈られた理由は、読み終えるころには腑に落ちているはずです。
手に取るなら
現在の版はハヤカワ・ミステリ。ウィンダムとバネルジーのシリーズは第1作『カルカッタの殺人』から始まっており、本書はその第2作にあたります。
順に読み進めて二人の関係の積み重なりまで味わう楽しみもあれば、この巻の舞台に惹かれて先に手を伸ばす楽しみもある。1920年のインドという時代と場所に少しでも心が動いたなら、王太子暗殺の一報から始まるこの旅は、きっと期待に応えてくれます。