ミステリーとしての読みどころ
レイキャヴィクの郊外に、真新しい住宅が次々と建っていく。掘り返されたばかりの土のなかから、ひとりの男の子が人間の骨を拾い上げる——『緑衣の女』は、そんな不穏な発見から幕を開ける警察小説です。
骨は、最近埋められたものではありませんでした。誰のものとも、いつ、誰の手で埋められたのかもわからない。
時間そのものが封をしてしまった問いを前に、捜査官エーレンデュルの静かな追跡が動き出します。
著者について
作者のアーナルデュル・インドリダソンは、1961年、アイスランドの首都レイキャヴィクに生まれました。父は高名な作家インドリディ・G・トーステンソン。
アイスランド大学で歴史学と映画を学び、新聞社勤務を経てフリーの映画評論家となったのち、1997年、犯罪捜査官エーレンデュルを主人公とするシリーズの第一作で作家デビューを果たします。本作『緑衣の女』は、そのシリーズの一冊。
原書は2001年に刊行された第4作にあたります。前作『湿地』に続いて2年連続でガラスの鍵賞に輝き、さらに英国推理作家協会(CWA)のゴールドダガー賞まで受賞しました。
アイスランドという小さな島国から生まれた物語が、北欧の外の読者にまで広く届いたことになります。
物語の舞台は、レイキャヴィク郊外に広がる新興住宅地です。かつては何もなかった土地に区画が切られ、重機が入り、真新しい暮らしがこれから根を下ろそうとしている。
都市が外へ外へと膨らんでいく、その最前線のような場所です。ところが、地面を掘り返せば掘り返すほど、そこは新しい土地であると同時に、誰かが暮らし、何かが起きていた古い土地でもあったことが見えてくる。
その工事現場で、ひとりの男の子が土のなかから古い人間の骨を掘り当てるところから、事件は動き出します。骨は最近埋められたものではありませんでした。
長い年月、土の下で眠っていたもの。身元も、いつ、誰の手で埋められたのかも、はじめは何ひとつわかりません。
エーレンデュルが向き合うのは、犯人を追う通常の捜査とは手触りの違う謎です。追うべき足取りは、地図のうえではなく、時間の奥のほうにある。
追う相手は特定の人物というより、土地に降り積もった長い歳月のほうなのかもしれません。彼はまず、この土地がまだ住宅地になる前、そこで何があったのかを一つずつ掘り起こしていきます。
発見現場の近くには、かつてサマーハウスが建っていたらしい。そう遠くない場所には、英米の軍のバラックもあったといいます。
そうした断片が、遠い時代の空気を少しずつ連れてくる。土地の古い記憶をたどるうち、付近の住人たちの証言のなかに、ひとりの女の影が浮かび上がってきます——緑のコートを着た、女。
読者は、名探偵の華麗な推理を見物する側ではありません。捜査官のかたわらに立ち、土のなかから断片が一つずつ掘り出されていくのを、彼と同じ速度で見届けていく側です。
骨がひとつ、証言がひとつ増えるたびに、長く封をされてきた「哀しい事件」の輪郭が、ゆっくりと、しかし確かに濃くなっていく。その手つきの静かさが、かえって落ち着かない緊張を生みます。
読みどころ
この作品の核は、いま進む捜査と、遠い過去とが静かに響き合う、二重の時間にあります。 現場の骨をめぐる現在の追跡と並んで、失われた歳月がゆっくりと姿を取り戻していく。
派手な仕掛けや急転する追跡劇があるわけではありません。あるのは、寒々しいアイスランドの風土と、記憶を一枚ずつめくっていくような地道な手つきだけ。
それでもページを繰る手が止まらないのは、掘り起こされていくものの重さゆえです。刊行元はこの物語を「世界中が戦慄し涙した、究極の北欧ミステリ」と評しています。
ガラスの鍵賞とCWAゴールドダガー賞という二つの受賞が、その評価が国境を越えて共有されたことを裏づけています。
一撃の大トリックや息もつかせぬスピード感を求める読者には、この歩みはいくぶん静かに、遅く映るかもしれません。本作の愉しみは、事件を解く鮮やかさよりも、掘り起こされていく時間の手触りと、そこから立ちのぼる哀しみの側にあります。
寒い土地の空気ごと物語に沈み込みたい読者、謎解きの奥に人間の情緒を求める読者、警察小説をじっくり味わいたい読者には、ためらいなく薦められる一冊です。北欧ミステリがなぜこれほど世界を惹きつけてきたのか、その理由の一端を確かめる読書にもなるはずです。
手に取るなら
現在の版は創元推理文庫(2013年刊)。訳は柳沢由実子——インドリダソンの『湿地』をはじめ、マンケルやシューヴァル/ヴァールーといった北欧ミステリの名作を数多く手がけてきた訳者です。
本作はエーレンデュル捜査官シリーズの一冊ですが、単独でも過不足なく読み通せます。ここから入って気に入れば、同じ捜査官が登場する物語へ手を伸ばす楽しみも待っています。
土に埋もれた歳月を静かに掘り起こしていくこの一冊は、読み終えたあとも長く胸に残ります。