北欧 1965
絞殺された女の名を、
誰も知らなかった。
『ロセアンナ』マイ・シューヴァル/ペール・ヴァールー

書評

ロセアンナ

運河で発見された身元不明の女性。地道な捜査の積み重ねが読ませる警察小説の原点。

ロセアンナ 表紙画像
マイ・シューヴァル/ペール・ヴァールー KADOKAWA(角川文庫) 原書 1965年 · 邦訳 2014年
目次

夏のイェータ運河、浚渫作業のさなかに引き上げられたのは、一人の若い女性の遺体でした。名前も、どこで殺されたのかも、なぜ命を奪われたのかも分からない。

手がかりと呼べるものが、ほとんど何もないのです。天啓のようなひらめきで事件を一刀両断する探偵は、この物語には出てきません。

あるのは、ストックホルムの刑事たちが足で稼ぐ地道な捜査だけ。『ロセアンナ』は、そのゼロに近い地点から歩き出す警察小説です。

物語の入り口

〈マルティン・ベック〉シリーズは、ストックホルム市警の刑事マルティン・ベックを主人公とする連作です。物語は、夏のイェータ運河で動き出します。

運河の底をさらう浚渫作業の途中、泥とともに引き上げられたのは、若い女性の遺体でした。閘門で見つかったその亡骸は、一糸まとわぬ姿で、絞殺されていた。

けれども、彼女が誰なのかは分かりません。身元を示すものは何もなく、行方不明者の届けとも結びつかない。

どこで、いつ殺されたのかさえ判然としないのです。ひとつの遺体だけがそこにあり、そこから伸びていくはずの糸が、まるで見当たりません。

この難事件が、ストックホルム市警のマルティン・ベックのもとへ回ってきます。被害者が何者かも分からないままでは、その人物を軸にした捜査は始めようがありません。

誰が彼女を恨んでいたのか、誰が最後に会ったのか——問いを立てるための足場そのものがないのです。時間だけが過ぎ、事件は次第に膠着し、埋もれかけていきます。

それでもベックたちは、わずかな可能性をひとつずつ潰しながら、被害者がどこの誰だったのかを、気の遠くなるほど遠回りな道のりで手繰り寄せていきます。

沈黙を破ったのは、思いがけない方角からの一報でした。捜査が行き詰まりかけたころ、はるばるアメリカの地方警察から、一通の電報がベックのもとへ届きます。

遠く離れた土地からもたらされたその報せをきっかけに、止まっていた歯車がゆっくりと回りはじめ、やがて一人の男に容疑の目が向けられていく。捜査がようやく手がかりらしい手がかりをつかむのは、ここからです。

ゼロから始まった物語が、ひとすじの光を見いだすまでの粘りこそ、この第1作の背骨になっています。

読みどころ

この作品の読みどころは、捜査の手続きだけで一篇のミステリを成立させてしまう筆の確かさにあります。 名探偵の一閃が霧を払うのではなく、資料を繰り、人に会い、裏を取るという地味な反復の積み重ねが、事件の像をじわじわと動かしていく。

読者はベックたちの背中を追う位置に置かれ、彼らが確かめたことだけを、彼らと同じ歩幅で知っていくことになります。近道はありません。

神の視点もありません。その焦れったさが、いつのまにか捜査への没入に変わっている——そこにこの小説の醍醐味があります。

捜査の手ざわりだけで最後まで緊張を保ってみせる小説は、そう多くはないのです。

もうひとつの読みどころは、これがすべての出発点だという事実そのものにあります。のちに大きく育っていくシリーズの声や呼吸が、この第1作にすでに芽生えている。

連作の第一歩を、その手つきがまだ静かなうちに見ておけるのは、シリーズものならではの贅沢な楽しみです。警察小説や北欧ミステリを日ごろ読んでいる人ほど、随所で「ここが源流だったのか」と膝を打つはずで、一つのジャンルの原点を体感できるという意味でも、得がたい読書になります。

こんな人におすすめ

相性でいえば、めまぐるしい急展開や一撃の大仕掛けを心待ちにする読者には、この歩みはいくぶん地味に映るかもしれません。本作の楽しみは華やかな見せ場の側ではなく、捜査という営みそのものの手応えの側にあります。

一晩で消費する興奮よりも、読み終えたあとに長く残るものを求める人にこそ向いた一冊です。事件そのものだけでなく、刑事たちの日常や組織の空気ごと味わいたい読者、そして現代の警察小説や北欧ミステリの水源に触れてみたい読者には、迷わず薦められます。

作品の背景

『ロセアンナ』(原題 Roseanna)は、1965年に発表された〈マルティン・ベック〉シリーズの記念すべき第1作にあたります。マイ・シューヴァルとペール・ヴァールーはこの年から十年をかけて、全10作を計画的に書き継ぎました。

派手な仕掛けやあっと驚く大トリックではなく、捜査という営みそのものを一歩ずつ丹念に描く——その姿勢は当時として新しく、のちの警察小説や北欧ミステリの原型と評されてきました。いま世界中で親しまれている北欧ミステリの長い系譜をさかのぼっていくと、その源流のひとつがこの一冊に行き着きます。

警察小説の金字塔と呼ばれるゆえんです。

手に取るなら

いま読めるのは角川文庫版(2014年刊)。〈マルティン・ベック〉シリーズの第1作にあたるので、ここから順に読み進めていけば、一人の刑事とその世界が育っていく過程を最初から見届けることができます。

夏の運河から静かに始まるこの執拗な捜査の物語は、半世紀あまりを経たいまも、少しも古びていません。

マイ・シューヴァル/ペール・ヴァールーについて

マイ・シューヴァル(1935〜2020)とペール・ヴァールー(1926〜1975)は、スウェーデンの作家です。ヴァールーは事件記者から出発したジャーナリストで、のちに小説も書くようになり、シューヴァルは出版社に勤めていました。

公私のパートナーとなった二人は、ストックホルムの警察を舞台に、刑事マルティン・ベックとその同僚たちを描く警察小説を、はじめから全十作と決めて書き始めます。1965年の『ロセアンナ』から1975年の最終作まで、一年に一作ほどの歩みで書き継がれました。

事件の捜査を追いながら、同時代のスウェーデン社会の空気が硬くなっていくさまを描き込んだのがこの連作の特徴です。第4作『笑う警官』の英訳は、1971年にアメリカ探偵作家クラブのエドガー賞長編賞を受けています。

ヴァールーは最終作を書き終えた1975年に世を去り、シューヴァルはその後も翻訳や執筆を続けました。

書誌情報

出版社
KADOKAWA / 角川文庫
原書刊行年
1965
邦訳刊行年
2014
ISBN-13
9784041013830
系譜
北欧 / 警察手続き · シリーズ探偵物

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リットン

都内金融機関で経営企画とデータアナリストをしているアラサー。
文系の非エンジニアですが、独学で始めた Python と生成AIにすっかりはまりました。
プログラミング・サッカー・ミステリ紹介など、好きなことを好きに書いています。

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