ミステリーとしての読みどころ
夏のイェータ運河、浚渫作業のさなかに引き上げられたのは、一人の若い女性の遺体でした。名前も、どこで殺されたのかも、なぜ命を奪われたのかも分からない。
手がかりと呼べるものが、ほとんど何もないのです。天啓のようなひらめきで事件を一刀両断する探偵は、この物語には出てきません。
あるのは、ストックホルムの刑事たちが足で稼ぐ地道な捜査だけ。『ロセアンナ』は、そのゼロに近い地点から歩き出す警察小説です。
著者について
作者はマイ・シューヴァルとペール・ヴァールー。公私をともにした二人が力を合わせて書き上げた〈マルティン・ベック〉シリーズは、ストックホルム市警の刑事マルティン・ベックを主人公とする連作で、本書(原題 Roseanna)は1965年に発表されたその記念すべき第1作にあたります。
二人はこの年から十年をかけて、全10作を計画的に書き継ぎました。派手な仕掛けやあっと驚く大トリックではなく、捜査という営みそのものを一歩ずつ丹念に描く——その姿勢は当時として新しく、のちの警察小説や北欧ミステリの原型と評されてきました。
いま世界中で親しまれている北欧ミステリの長い系譜をさかのぼっていくと、その源流のひとつがこの一冊に行き着きます。警察小説の金字塔と呼ばれるゆえんです。
物語の入り口
物語は、夏のイェータ運河で動き出します。運河の底をさらう浚渫作業の途中、泥とともに引き上げられたのは、若い女性の遺体でした。
閘門で見つかったその亡骸は、一糸まとわぬ姿で、絞殺されていた。けれども、彼女が誰なのかは分かりません。
身元を示すものは何もなく、行方不明者の届けとも結びつかない。どこで、いつ殺されたのかさえ判然としないのです。
ひとつの遺体だけがそこにあり、そこから伸びていくはずの糸が、まるで見当たりません。
この難事件が、ストックホルム市警のマルティン・ベックのもとへ回ってきます。被害者が何者かも分からないままでは、その人物を軸にした捜査は始めようがありません。
誰が彼女を恨んでいたのか、誰が最後に会ったのか——問いを立てるための足場そのものがないのです。時間だけが過ぎ、事件は次第に膠着し、埋もれかけていきます。
それでもベックたちは、わずかな可能性をひとつずつ潰しながら、被害者がどこの誰だったのかを、気の遠くなるほど遠回りな道のりで手繰り寄せていきます。
沈黙を破ったのは、思いがけない方角からの一報でした。捜査が行き詰まりかけたころ、はるばるアメリカの地方警察から、一通の電報がベックのもとへ届きます。
遠く離れた土地からもたらされたその報せをきっかけに、止まっていた歯車がゆっくりと回りはじめ、やがて一人の男に容疑の目が向けられていく。捜査がようやく手がかりらしい手がかりをつかむのは、ここからです。
ゼロから始まった物語が、ひとすじの光を見いだすまでの粘りこそ、この第1作の背骨になっています。
読みどころ
この作品の読みどころは、捜査の手続きだけで一篇のミステリを成立させてしまう筆の確かさにあります。 名探偵の一閃が霧を払うのではなく、資料を繰り、人に会い、裏を取るという地味な反復の積み重ねが、事件の像をじわじわと動かしていく。
読者はベックたちの背中を追う位置に置かれ、彼らが確かめたことだけを、彼らと同じ歩幅で知っていくことになります。近道はありません。
神の視点もありません。その焦れったさが、いつのまにか捜査への没入に変わっている——そこにこの小説の醍醐味があります。
捜査の手ざわりだけで最後まで緊張を保ってみせる小説は、そう多くはないのです。
もうひとつの読みどころは、これがすべての出発点だという事実そのものにあります。のちに大きく育っていくシリーズの声や呼吸が、この第1作にすでに芽生えている。
連作の第一歩を、その手つきがまだ静かなうちに見ておけるのは、シリーズものならではの贅沢な楽しみです。警察小説や北欧ミステリを日ごろ読んでいる人ほど、随所で「ここが源流だったのか」と膝を打つはずで、一つのジャンルの原点を体感できるという意味でも、得がたい読書になります。
こんな人におすすめ
相性でいえば、めまぐるしい急展開や一撃の大仕掛けを心待ちにする読者には、この歩みはいくぶん地味に映るかもしれません。本作の楽しみは華やかな見せ場の側ではなく、捜査という営みそのものの手応えの側にあります。
一晩で消費する興奮よりも、読み終えたあとに長く残るものを求める人にこそ向いた一冊です。事件そのものだけでなく、刑事たちの日常や組織の空気ごと味わいたい読者、そして現代の警察小説や北欧ミステリの水源に触れてみたい読者には、迷わず薦められます。
手に取るなら
いま読めるのは角川文庫版(2014年刊)。〈マルティン・ベック〉シリーズの第1作にあたるので、ここから順に読み進めていけば、一人の刑事とその世界が育っていく過程を最初から見届けることができます。
夏の運河から静かに始まるこの執拗な捜査の物語は、半世紀あまりを経たいまも、少しも古びていません。