ミステリーとしての読みどころ
夏の休暇に入ったばかりの刑事のもとで、電話が鳴ります。「これはきみにしかできない仕事だ」——たったひとことで、その夏は終わりました。
『煙に消えた男』(原書1966年)は、〈刑事マルティン・ベック〉シリーズの第二作にあたる一編です。手がかりらしい手がかりのないまま、一人の男の行方を追って国境の向こうまで足を運ぶことになる捜査の物語。
華々しい幕開けではありません。それでも、この一本の電話が鳴った瞬間から、物語は静かに動きはじめています。
著者について
作者の欄には、マイ・シューヴァルとペール・ヴァールーという二つの名前が並びます。一冊の小説を二人で書くという選択は、〈刑事マルティン・ベック〉という連作の性格とよく釣り合っているように見えます。
ひとつの事件を複数の目で見て、見えたものを突き合わせ、そこから少しずつ輪郭を立ち上げていく。警察という組織の仕事の進め方は、まさにそういうものだからです。
原書の刊行は1966年。東と西が鉄のカーテンで隔てられていた時代の只中で書かれた作品であり、その時代の空気は本作の舞台の選び方にもそのまま流れ込んでいます。
のちに「警察小説の金字塔」と呼ばれることになるシリーズの、まだ二作目。連作としての設計がようやく動きはじめた時期の一編です。
休暇中のマルティン・ベックを呼び戻したのは、上司からの命令でした。指示されて向かった先は、外務大臣の側近。
刑事が仕事の話を持ちかけられる相手として、これはずいぶん妙な場所です。そこで託されたのは、行方の分からなくなった一人の男を捜してほしい、という依頼でした。
消えたのはスウェーデン人のジャーナリスト。ブダペストで消息を絶ったきり、連絡が途切れています。
しかもこの人物、かつて防諜活動機関の調査対象になっていた過去を持っている。刑事が外務大臣の側近から直に依頼を受けるという成り行きそのものが、この仕事の異例さを物語っています。
にもかかわらず、ベックの手元に残されたものはあまりに少ない。何を足がかりに動けばいいのか、出発の時点でほとんど定まっていないのです。
そして向かう先は、「鉄のカーテンの向こう側」。冷戦下の東欧です。
国境をまたいだ途端、刑事として当たり前に使えていた道具立ては、ほとんど手元から消えてしまう。捜査の権限も、慣れ親しんだ手順も、そのまま持ち込むわけにはいきません。
言葉も制度も勝手の違う土地で、地元の協力を仰ぎながら、ベックは一歩ずつ自分の足場をこしらえていくほかない。やがて、現地警察を名乗る男が彼の前に現れます。
この立ち上がりのおもしろさは、読者がベックとほとんど同じ量の情報しか持たされないところにあります。誰に会えばいいのか、何を疑えばいいのか、判断の材料は驚くほど乏しい。
渡されたわずかな断片をベックの肩越しに一緒に眺めながら、見知らぬ街でどう動けばいいのかを一緒に手探りする。読者はそういう位置に置かれます。
読みどころ
読みどころは、手がかりのなさそのものが物語を前へ押し出していくところです。 人に会い、話を聞き、記録をあたる。
捜査らしい捜査の手順を、ひとつずつ踏んでいくほかありません。しかもひとつ確かめるたびに、確かめられたことよりも確かめられなかったことのほうが積み上がっていく。
異国での捜査という設定が、その手応えのなさをいっそう濃くします。土地勘がなく、頼れる伝手も限られ、時間だけが過ぎていく。
地道な聞き込みと確認の積み重ねを味わいたい読者にとって、これほど誂え向きの作りもそうありません。
もうひとつは、シリーズのごく早い一編を、いまの日本語で辿れることです。「警察小説の金字塔」という評価は後から与えられたものですが、その評価がどこから来ているのかは、こうした地味な場面の連なりに実際に触れてみて初めて腑に落ちます。
まだ二作目という位置も、この連作を腰を据えて追いかけていくつもりの人には心強いところです。
地道な捜査の手触りを味わいたい読者には、まっすぐ薦められる一冊です。確かめては足踏みし、また別の方向から確かめ直す。
その反復のなかにこそ、この作品の呼吸があります。一方で、章ごとに大きな出来事が起きて物語がぐいぐい進んでいく読み心地を求めて開くと、序盤の歩みは静かに感じられるかもしれません。
ただ、その静けさは物足りなさというより、捜査というものが実際に持っている速度を写し取った結果です。急がずに付き合うほど手応えが返ってくる、そういうタイプの物語といえます。
手に取るなら
現在手に取るなら、KADOKAWAの角川文庫版です。新訳で読める形が整っているうえ、〈刑事マルティン・ベック〉シリーズをここから先へ追いかけていくための入り口にもなります。
原書1966年の作品でありながら、捜査の場面が抱えている緊張は少しも古びていません。冷戦という時代の空気を背景に、消えた一人の男の行方を辿るためだけに人はどこまで動けるのか。
その一点を静かに描き切った、シリーズ初期の充実した一編です。