ミステリーとしての読みどころ
「リナ・アスガースは、八年近くも夫と暮らしてから、やっと自分が殺人者と結婚したことをさとった」――物語は、この一文から幕を開けます。作者自身が最初の一行で読者に手渡してしまうこの前提が、そのまま作品全体を覆う重い天蓋になる。
何が起きるのかではなく、すでに置かれてしまった不吉な事実を抱えたまま、読者はリナという一人の女性のかたわらに立たされます。犯罪心理小説と呼ばれる本作の緊張は、まさにこの立ち位置から生まれてきます。
著者について
書き手はフランシス・アイルズ。その正体は、英国本格黄金期を代表する巨匠アントニイ・バークリーです。
1893年、イギリスのハートフォードシャーに生まれた彼は、はじめ〈パンチ〉誌で活躍するユーモア作家でした。やがて「?」名義で『レイトン・コートの謎』を世に出すと、『毒入りチョコレート事件』『第二の銃声』『ジャンピング・ジェニイ』と、従来の探偵小説への批判を織り込んだ実験精神あふれる作品を次々に発表し、その地位を不動のものにしていきます。
探偵小説の約束事を疑い、その内側から新しい形を試そうとする――そういう姿勢が、この作家の一貫した個性でした。謎解きの型を揺さぶり続けたバークリーが、アイルズという別名義をまとい、犯罪と心理そのものへ筆を向けたときに生まれたのが、『殺意』であり、この一作です。
名探偵の推理を追う小説とはまるで手ざわりの異なる領域を、同じ書き手が開拓していた。そう思って読み始めると、この物語の企ての大胆さが、いっそう際立って見えてきます。
物語の中心にいるのは、リナという女性です。ハンサムで人当たりのよい青年ジョニーに熱心に言い寄られ、彼女は結婚に踏み切ります。
そこから八年に及ぶ結婚生活が流れていく。幸福なはずのその歳月のなかで、しかしリナは少しずつ、夫のもうひとつの顔に気づいていくことになります。
この物語を静かに、そして確実に駆動していくのは、リナ自身の性格です。決定を先へ先へと送り、都合の悪いものは思い込みで塗り込めてしまう――彼女はそんな自分の性分を、どうしても変えることができない。
崩壊の足音は、遠く近く響いていたはずでした。それでも彼女は目を逸らし、事態を先送りにし続ける。
この「気づかないでいようとする力」と「気づいてしまう瞬間」とのせめぎ合いが、ページを繰る手を止めさせません。冒頭の一文で最悪の答えを知らされている読者は、リナがいつ、どのようにその真実へ行き着くのかを、彼女の視線のすぐ後ろから見守ることになります。
人間の不可解な性と、その内側でうごめく葛藤。本作が描こうとするのは、事件の構図よりもむしろ、この一人の女性の心の動きそのものなのです。
読みどころ
この小説の核心は、心理そのものを追う怖さにあります。 実験精神をもって探偵小説の可能性をひろげてきたバークリーが、アイルズ名義では、その鋭い視線を人間の内面へと深く差し向けました。
八年という歳月のなかで、ひとつの家庭の内側で静かに何かが進行していく。読者を待つのは、一人の人間の内側が少しずつ軋んでいくさまを、間近で見つめ続けるじりじりとした読書体験です。
主役に据えられているのが、疑念を抱えたひとりの女性の心であるという点も見逃せません。ふつうなら物語の脇に置かれてしまう「知りたくないのに気づいてしまう心の揺れ」を、本作は堂々と物語の真ん中に据えてしまう。
読者は安全な観察者の椅子から引きずり出され、リナと同じ不安をひとつずつ分かち持つことになります。だからこそ本作は、発表から長い時間を経てもなお犯罪心理小説の傑作として読み継がれ、この分野のひとつの原点として名を挙げられ続けてきました。
向いているのは、鮮やかな謎解きよりも、人間の心の翳りをじっくり味わいたい読者でしょう。派手な仕掛けや爽快な解決を期待して開くと、その静かで内向きな緊張は肩透かしに感じられるかもしれません。
事件が次々に起きてスピード感で読ませるタイプの物語ではなく、むしろ日常のなかにじわじわと滲んでいく不安を追う小説だからです。けれど、登場人物の心のうちに分け入り、逃れられない予感とともにページをめくっていく――そういう読書を求める人にとって、本作はまたとない一冊になるはずです。
黄金期の探偵小説を一通り読んできた人が、その同じ作家たちがどれほど遠くまで筆を伸ばしていたかを知るうえでも、忘れがたい手ごたえを残します。読み終えたあと、しばらく本を閉じたまま余韻に浸ってしまう、そんな種類の物語です。
手に取るなら
現在手に取るなら、東京創元社の創元推理文庫で読めます。別題を『犯行以前』といい、原書は1932年に発表されました。
のちにヒッチコックが『断崖』の題で映画化した原作としても知られる一冊です。同じアイルズ名義のサスペンス『殺意』もあわせて紹介していますので、この作家が探偵小説の外側で切り拓いた犯罪心理の世界を、続けて味わってみるのもよいでしょう。