ミステリーとしての読みどころ
遺産と自由を一挙に手にする方法を、ある青年が本気で思案しはじめます。相手は、財布の紐を握る口やかましい伯母。
犯人の側から犯行の企てを描く、英国黄金期の倒叙ミステリです。読者は探偵とともに謎を追うのではなく、殺意を抱いた甥の思考を、そのまま内側からたどっていくことになります。
著者について
著者のリチャード・ハルは、この『伯母殺人事件』(1934年)で世に出た作家です。デビュー作でありながら、一編は倒叙推理小説の代表作として長く語り継がれてきました。
犯人があらかじめわかっている——というより、犯人自身が語り手となって犯行を計画していく——という倒叙の形式は、この時代に一つの頂点を迎えます。アントニイ・バークリーがフランシス・アイルズ名義で書いた『殺意』、F・W・クロフツの『クロイドン発12時30分』、そして本作。
この三編が、しばしば「倒叙推理小説三大名作」として並び称されてきました。謎を解く快感ではなく、犯人の企てが成るか成らぬかを見守るスリル。
その独特の味わいを、ハルは軽妙な筆致で仕立て上げています。
物語の入り口
舞台は、ウェールズの片田舎です。青年は、口やかましい伯母と二人きりで、静かな田舎家に暮らしています。
静かとはいっても、心穏やかな日々ではありません。彼は伯母の小言に日々うんざりし、都会の華やいだ暮らしに焦がれながら、この土地に縛りつけられている。
というのも、家の財布の紐を握っているのは伯母のほうで、青年は自分の意思で家を出ることすらままならないからです。金がなければ、自由もない。
彼にとって伯母は、日々の平穏をかき乱す厄介者であると同時に、行く手をふさぐ壁でもあります。都会をうっとりと夢想する時間と、目の前の田舎暮らしへの苛立ち。
その落差が積もっていくほどに、青年の内側では剣呑な計算が頭をもたげはじめます。
ある日の諍いが、きっかけになります。青年は、自由と財産を一挙に手に入れる方法を——つまり、伯母をどう亡き者にするかを——本気で思い描きはじめるのです。
ここから物語は、殺意を抱いた甥の一人称で進んでいきます。読者が付き合わされるのは、名探偵の推理ではなく、身勝手きわまる青年の内なる声。
彼がどれほど伯母を疎ましく思っているか、その計画がどれほど周到に、そしてどこか間の抜けた具合に練られていくか。そのすべてを、読者は彼の頭のなかから眺めることになります。
彼がたくらむのは、いわゆる「プロバビリティの犯罪」。事故か自然死にしか見えない形で、伯母の命を奪おうという企てです。
一度、二度、三度と、彼の計画の前で伯母の命は風前の灯となります。事は思い通りに運ぶのか、運ばないのか。
読者は、犯行を止めたいような、いっそ最後まで見届けたいような、宙ぶらりんな位置に立たされる。倒叙という形式は、読み手をいつのまにか犯人と同じ側の椅子に座らせてしまうのです。
この居心地の悪い共犯めいた感覚こそ、本作がまず差し出してくる愉しみです。
読みどころ
倒叙ミステリの妙味は、「誰がやったのか」を最初から知らされたうえで、それでも先が気になってしまうところにあります。 犯人はわかっている。
手口の見当もついている。それなのにページをめくる手が止まらないのは、企てのひとつひとつに、こちらの息を詰めさせる緊張が仕込まれているからです。
青年の計算が熱を帯び、独りよがりな理屈が並んでいくほど、読者は妙な可笑しみとともに彼の傍らを歩かされる。本作の語り口が軽やかなぶん、その足取りはいっそう軽快で、皮肉な諧謔がそこかしこに漂います。
そして本作が、単なる犯罪計画の記録に終わらないのは、後半にひとひねりが待ち受けているからです。公式の紹介文も、後半に至って話は意外な展開を示す、とだけ予告しています。
一筋縄ではいかないその後半こそが、本作を長く読み継がせてきた核心にほかなりません。ここから先で何が起こるのかは、ぜひご自身の目で確かめてください。
古典的な名探偵ものの、鮮やかな謎解きを期待して開くと、少し勝手が違うかもしれません。ここには颯爽と真相を告げる探偵はおらず、代わりに、殺意を抱えた青年の身勝手な独白が最後まで寄り添ってきます。
とはいえ、その視点の近さこそが倒叙の醍醐味。悪意に満ちた語り手と長い時間を共にしながら、その企ての行方を息を詰めて見守る——そういう読書を好む方には、これ以上ないほど手応えのある一冊です。
読み口が軽妙なので、黄金期ミステリの入り口として手に取るにも向いています。
手に取るなら
現在手に取るなら、創元推理文庫版が入手しやすい一冊です。刊行から長い時を経てなお読み継がれてきたのは、それだけこの語りの引力が古びていないということでしょう。
『殺意』や『クロイドン発12時30分』とあわせて読めば、倒叙という趣向がどれほど豊かな広がりを持つのかが見えてきます。倒叙推理小説の系譜に一度触れておきたい読者にとって、本作はまさにその原点のひとつ。
企ての行方をたどるスリルと、思わぬ後半の妙味を、あわせて味わってみてください。