ミステリーとしての読みどころ
息子を奪われた父親が、顔も知らない相手への復讐を、一冊の日記に書きつけていく。『野獣死すべし』は、その静かで不穏な独白から幕を開ける英国黄金期のミステリです。
1938年に発表され、構成の妙によって今日まで読み継がれてきました。端整な謎解きの枠組みの内側に、抑えのきかない感情の熱がずっと燻っている。
そんな一作です。
著者について
著者のニコラス・ブレイクは、英国の桂冠詩人セシル・デイ=ルイスがミステリを書くときに用いた別名義です。詩人が余技で綴ったもの、と軽く見るのは早計でしょう。
言葉の手ざわりへの神経と、人の心の翳りをすくい上げる目が、この物語の隅々にまで行き渡っています。犯罪小説というジャンルが、ときに事件と手がかりの組み立てだけに痩せてしまうのに対し、この作家の筆はいつも、その事件を生きてしまう人間のほうへ深く踏み込んでいく。
悲しみや怒りが、記号ではなく重みを持った現実として立ち上がってくるのは、詩の言葉を鍛え抜いてきた書き手ならではのものです。本作は私立探偵ナイジェル・ストレンジウェイズを主役とするシリーズの一編にあたり、1938年に世に出た代表作として、長く名前を挙げられ続けてきました。
詩人が犯罪小説の名匠でもあった——その二つの顔がひとつに溶け合った場所に、この本は立っています。
探偵作家のフィリクス・レインには、最愛の一人息子がいました。その息子が、ある日、暴走する自動車に轢き逃げされて命を落とします。
理不尽としか言いようのない死です。加害者はその場から走り去り、あとには壊れてしまった日常だけが残されました。
レインは犯人を突き止めようと動きますが、再三の調査にもかかわらず自動車の行方は知れないまま、六か月という時間がむなしく過ぎていきます。手がかりは指のあいだからこぼれ落ち、警察の捜査も行き止まりに突き当たる。
日々は元に戻ってなどくれず、悲しみは、やり場を失ったまま日ごとに濃くなっていきました。そして、その澱んだ感情はやがて一点に凝り固まっていく。
怒りを抑えきれなくなったレインは、まだ顔も名前も知らぬ見えざる犯人に対して、ひとり復讐を誓うのです。相手が誰なのかも分からないまま、彼は自らその計画を日記に書きつけ始めます。
何を考え、何を調べ、どこへ足を向けたのか——その一部始終を、彼自身の手で記録していく。物語の前半を引っ張っていくのは、この父親の手記にほかなりません。
読者は、レインの筆が進むそのすぐ隣に座らされ、彼の悲嘆と決意と、時おり顔をのぞかせる冷ややかな理性とを、日記の一行一行を通してじかに受け取っていくことになります。愛する者を奪われた者だけが持つ、静かで底の見えない執念。
それが淡々とした文章の下から立ちのぼってくる。復讐という言葉が持つ危うさを、告白の声そのものから浴びせられる。
そんな居心地の悪い近さが、この導入部の何よりの引力です。
読みどころ
読みどころは、前半と後半で物語の姿がはっきりと変わる、その大胆な構成にあります。 前半はこの父の手記が物語を引っ張り、後半は趣を変えて謎解きの様相を帯びていく。
ひとつの作品の中で語りの重心がすっと移る。感情に濡れた告白から、論理の秩序へ。
手記という一人称の熱っぽい語りと、外側から事件を見据える冷静なまなざしとが、一冊のなかで交代していく。その切り替わりの呼吸そのものが、この作品を忘れがたいものにしています。
相反するふたつの温度を一冊に畳み込んでみせたところに、この本が「構成の妙」で語り継がれてきた理由があるのです。
もうひとつ挙げておきたいのは、犯罪小説でありながら、人の心の記述に手を抜かない筆づかいです。詩人の別名義という出自は伊達ではなく、悲しみや憎しみといった扱いにくい感情が、決まり文句に流れることなく、ひとりの人間の言葉として彫り込まれています。
愛する者を失った人間が、その空白をどう埋めようとし、どこまで自分を保っていられるのか。物語は事件を追いながら、同時にそんな問いをも静かに抱え込んでいます。
謎の面白さと、語り手の胸の内をのぞき込む面白さが、同じだけの重みで釣り合っている。だからこそ、読み終えたときに残るものは、犯人当ての快感だけにとどまりません。
名探偵の推理を追う古典的な謎解きを求める読者にも、感情のうねりを湛えた語りに身を浸したい読者にも、正面から薦められる一冊です。黄金期のミステリというと、快活で謎解き遊戯の色が濃い作品を思い浮かべる方も多いかもしれません。
本作はその期待に応える骨格を備えつつ、もっと翳りのある、人間くさい手ざわりを差し出してきます。逆に、軽やかで明るい読み心地だけを期待して開くと、前半に立ちこめる復讐の気配は少しばかり重く感じられるかもしれません。
けれど、その暗さと熱こそがこの物語の推進力です。読み終えたあと、しばらく余韻に浸っていたくなるような一冊を探している夜に、よく似合います。
手に取るなら
現在手に取るなら、ハヤカワ・ミステリ文庫版です。1938年の原著が1976年に邦訳されて以来、版を重ねながら読み継がれてきた息の長い一冊で、英国黄金期のミステリを見晴らすうえでも確かな足がかりになります。
ナイジェル・ストレンジウェイズという探偵の物語をここから始めてみるのも、詩人の顔を持つ作家がミステリに何を持ち込んだのかを味わってみるのも、どちらも贅沢な入り口になるはずです。