ミステリーとしての読みどころ
10年前の二重殺人は、単純な事件だった——事件に関わった誰もがそう信じ、あえて疑う者などいませんでした。その静かな確信を、時効を目前にした一つの声が根こそぎ覆していく。
『殺人交叉点』は、決着したはずの過去を企みの手つきで解体していく、フランス技巧派サスペンスの代表作です。
著者について
作者のフレッド・カサックは、脚本家としても活躍したフランスの作家です。込み入った筋立てとユーモア、そして周到な仕掛けを効かせた作風で知られ、フランス・ミステリを代表する技巧派の一人に数えられます。
本作はその代表作にあたり、1972年に手を入れた改稿版でフランス・ミステリ批評家賞を受賞しました。長く読み巧者を楽しませてきた一編で、作家の湊かなえも「小説っておもしろい、ミステリーっておもしろい、と改めて気付かせてくれた一冊」と推薦の言葉を寄せています。
技巧の凝らされたプロットでありながら、読み口はどこまでも軽やか。その両立こそがカサックの真骨頂です。
物語の起点にあるのは、10年前に起きた一件の二重殺人です。それは余計な謎などない、単純な事件として片づけられていました。
殺人犯とされたのはボブという男。彼の有罪を、周囲の誰もが当然のこととして受け入れていたのです。
とりわけ、ボブを熱愛していたルユール夫人でさえ、その結末を何ひとつ疑いませんでした。裁きは下り、人々の記憶のなかで事件は角の取れた過去へと変わっていく。
解決済みの一件として時の底に沈み、流れた10年という歳月が、その輪郭をいっそう動かしがたいものにしていきます。それは、もう誰も蒸し返そうとは思わない、静かに閉じられた物語のはずでした。
ところが、時効の成立を間近にした頃合いに、その静けさを破る声が立ち上がります。真犯人は自分なのだ——不意に差し出されたその告白が、単純だったはずの一件を、まったく別の相貌へと引きずり出していくのです。
誰もが信じて疑わなかった「解決済み」という前提が、根元からぐらつき始める。読者はここで、10年ものあいだ揺らがなかったはずの足場を、その名乗りとともに一から問い直す位置に立たされます。
この滑り出しの巧さは、事件そのものの派手さではなく、「誰もが信じていた」という一点に企みの重心を据えているところにあります。疑う理由のない過去、揺らぎようのない確信——その盤石さこそが、崩れたときの落差をあらかじめ用意している。
時効という締め切りが刻一刻と迫るなか、驚愕の真相へと物語は歩みを進めていきます。派手な仕掛けを前面に押し出すのではなく、日常の顔をした確信をそっと裏返してみせる。
そこにフランス技巧派らしい老獪さがにじみます。
読みどころ
読みどころは、読者自身が作者の企みの射程に置かれる感覚にあります。 カサックは筋を緻密に編み上げる書き手で、ユーモアとブラックな味わいをまぶしながら、読み手の予断を静かに導いていきます。
手がかりを拾って犯人を割り出す純然たるパズルというより、プロットの組み立てそのものに趣向が凝らされたタイプの一編。だからこそ読み終えたあと、いま自分がたどってきた道筋を、もう一度なぞり直したくなります。
その再読をそそる手ざわりこそ、フランス技巧派サスペンスの醍醐味でしょう。悲劇の重さで押すのではなく、あくまで洒脱に、遊び心を忘れずに読者と知恵比べをしてみせる——そこには、英米の本格とはまた違う、フランス・ミステリならではの味わいがあります。
湊かなえの推薦がまっすぐ的を射ているのは、この「してやられた」という読書の快さを、飾らず言い当てているからにほかなりません。
こんな人におすすめ
相性の面でいえば、精緻な物理トリックや、盤上の手がかりだけで犯人を指し示すロジックの純度を第一に求める読者には、やや趣が違って映るかもしれません。本作の勘所は、論理の一手一手よりも、読者の思い込みを利用して差し出される企みの側にあるからです。
逆に、フランスならではの洒脱さとブラックな味わいを楽しみたい読者、鮮やかにしてやられる読後感を求める読者には、迷わず薦められる一冊。込み入った筋を追いながら、どこかで思いがけず足元をすくわれる読書を面白がれる人にこそ向いています。
半世紀を経てなお訳され、読み継がれてきた事実が、その満足度を静かに裏づけています。
手に取るなら
入手は創元推理文庫版で、訳は平岡敦。同じ巻には、ブラックで奇妙な味わいの中編「連鎖反応」が併録され、一冊で二つの趣向を続けて味わえます。
訳者の平岡敦は、ジャプリゾ『シンデレラの罠』やグランジェ『クリムゾン・リバー』、カダレ『誰がドルンチナを連れ戻したか』、ビュッシ『恐るべき太陽』など、フランス語圏のミステリや文学を数多く手がけてきた翻訳家です。こなれた訳文で、フランス技巧派の粋を存分に堪能できます。
決着したはずの過去が音を立てて裏返る驚きを、ぜひ一度、あなた自身の目で確かめてみてください。