ミステリーとしての読みどころ
雪に閉ざされたアイスランドの漁村。トンネルを抜けなければたどり着けない北の果ての町に、恋人を都に残した新人警察官が赴任してきます。
誰も家の扉に鍵をかけず、「ここらじゃどうせ何も起きない」と上司が請け合うほど静かな共同体——けれど、その静けさは長くは続きません。『雪盲』は、雪と沈黙に覆われた小さな町で起きた出来事を、外から来たばかりの若い警官の目で追っていく北欧ミステリです。
著者について
作者はラグナル・ヨナソン。アガサ・クリスティの作品をアイスランド語へ翻訳してきた経歴を持つ書き手で、本作『雪盲』(原題 Snjóblinda)はその小説家としてのデビュー作にあたります。
2010年に発表され、〈ダーク・アイスランド〉シリーズの記念すべき第一弾となりました。売り出しに一役買ったのは、北欧ミステリの大立者ヘニング・マンケルを手がけたエージェント。
その後押しを受けて世に出た新人は、いまや世界十四か国で翻訳される人気シリーズの書き手となっています。クリスティ作品を訳す手で謎解きの呼吸を体に入れた作家が、自国アイスランドの雪景色を舞台に選んだ——その組み合わせ自体が、この一冊の性格をよく言い当てているように思えます。
日本へは2017年に小学館文庫から上陸しました。訳は「特捜部Q」シリーズで知られる吉田薫です。
物語の入り口
物語は、新人警察官アリ=ソウルが、恋人をレイキャヴィクに残してアイスランド北端の町シグルフィヨルズルへ赴くところから動き出します。町へ通じる道はトンネルの向こう。
街の喧噪も、恋人の顔も、そのトンネルの手前に置いてこなければなりません。着いた先で待っていたのは、拍子抜けするほど平穏な日々でした。
住民は誰も戸締まりをせず、上司は「ここらじゃどうせ何も起きない」と言ってのける。事件らしい事件のない土地で、若い警官は少しばかり手持ち無沙汰な時間を過ごします。
その静けさが破れるのは、着任から二か月後のことです。町の劇場で、地元の老作家が死体となって見つかります。
上司はこれを事故として片づけようとしますが、アリ=ソウルは遺体の状況にどこか腑に落ちないものを感じ、他殺の線を捨てきれません。よそから来たばかりの新参者が、土地の流儀に逆らって疑いを口にする——その居心地の悪さが、静かな町に最初の緊張を走らせます。
追い打ちをかけるように、雪の中で若い女性が半裸のまま、瀕死の状態で発見されます。何が起きているのか誰にも見通せないまま、不穏な気配だけが町に満ちていく。
やがて捜査を進めるアリ=ソウルの耳には、住民たちがひっそり抱えてきた過去の断片が、少しずつ届き始めます。穏やかに見えた顔の裏に、それぞれの沈黙があった——町の平穏が、実は幾重にも折りたたまれた秘密の上に成り立っていたことが、外から来た警官の視線を通して見えてきます。
そして決定的なのは、この町が文字どおり外界から切り離されてしまうことです。外へ通じるただ一本の道が、雪崩によって塞がれてしまうのです。
助けも逃げ場も断たれた雪の檻の中で、確かなことがひとつだけ残ります。犯人は、この町の中にいる。
閉ざされた共同体という古典的な舞台装置が、アイスランドの過酷な冬とひとつに溶け合って、逃げ場のない緊張をじわじわと締め上げていきます。
読みどころ
この作品の魅力は、事件そのものよりも、雪と沈黙が醸す閉塞感の描き方にあります。 太陽のほとんど昇らない極北の冬、絶え間なく降り積もる雪、外への道を断つ雪崩。
そうした自然の圧力が、そのまま登場人物たちの心理を覆う重石になっていきます。派手な仕掛けで驚かせるより、じわじわと逃げ場を奪っていく息苦しさで読ませるタイプの物語です。
もうひとつの読みどころは、主人公アリ=ソウルの立ち位置にあります。彼はこの町の人間ではありません。
土地のしがらみを知らない新参者だからこそ、住民が当たり前に呑み込んできた事情に引っかかり、疑いを差し込むことができる。読者もまた、この余所者の目を借りて町へ足を踏み入れることになります。
知らない土地の空気を、主人公と同じ歩幅で少しずつ吸い込んでいく——その距離感が、シリーズの入り口としてよく効いています。
一撃の大トリックや息もつかせぬ急展開を第一に求める読者には、この物語の歩みはいくぶん静かに映るかもしれません。『雪盲』の持ち味は、雪に埋もれた町にたちこめる空気そのものにあります。
事件の謎を追いながら、閉ざされた共同体の温度や、極北の冬の手触りごと味わいたい読者にこそ向いています。北欧ミステリ特有の、暗く冷たい情感が好きな人なら、最初の数ページで町の寒さが肌に忍び込んでくるはずです。
手に取るなら
現在の版は小学館文庫。アイスランド語からの翻訳を、「特捜部Q」シリーズで健筆をふるう吉田薫が手がけています。
本作は〈ダーク・アイスランド〉シリーズの第一作にあたり、新人警官アリ=ソウルがこの北の町で初めて大きな事件と向き合う、いわば出発点の一冊です。世界十四か国へ渡ったこの雪景色のミステリを、まずはここから訪ねてみる——北欧の冬に分け入る入り口として、これ以上ないほど似合う始まりになるはずです。