ミステリーとしての読みどころ
盗難事件の調査という、いかにも現実的な相談の陰から、まるで毛色の違うもう一つの頼みごとが立ち上がってきます。数十年も前に交わされた口約束を、いまになって取り立ててほしい——そんな風変わりな願いを持ち込むのは、あろうことか、その盗難事件で疑いをかけられている当の女性でした。
巨漢の名探偵ネロ・ウルフが、性質のまったく異なる二つの依頼と、同時に向き合うことになる。ネロ・ウルフ・シリーズの初期を飾る一作です。
著者について
レックス・スタウトが生み出したネロ・ウルフの物語は、1934年に始まりました。そこから40年以上にわたって書き継がれていく長寿シリーズで、『ラバー・バンド』(原題 The Rubber Band)は、その第3作にあたります。
発表は1936年。シリーズがまだ若く、その後の長い歩みの土台を固めつつあった頃の作品です。
巨漢の名探偵ネロ・ウルフと、その助手アーチー・グッドウィン。この二人組が、黄金期アメリカのミステリを代表する探偵役として、長く読者に親しまれていくことになります。
本作は、その物語がまだ数えるほどしか語られていない、いわば黎明期の一編です。シリーズがまだ若く、その輪郭を手探りで定めていく時期の手触りが、そのまま残っています。
物語の入り口
物語は、ある会社の社長がウルフのもとを訪ねてくるところから動き出します。沿海物産会社で三万ドルもの盗難事件が起きた。
その調査を頼みたい、というのが用向きでした。ただ、社長の関心は犯人捜しそのものよりも、むしろ一人の従業員のほうに向いています。
社の事務員であるクララという女性がこの件で疑われており、社長は彼女の無実を明らかにしてほしいと望んでいたのです。会社ぐるみの金銭問題という、いかにも生臭く現実的な相談から幕が上がる——そう思って読み進めると、話は予想もしない方向へ枝を伸ばしていきます。
ついで今度は、疑いをかけられている当のクララ自身が、いかにも奇妙な依頼を携えてウルフのもとへやってくるのです。無実を証してもらう側の人物が、それとはまるで別の頼みごとを持ち込んでくる。
この出だしの意外さが、まず読者の目を引きます。彼女が語ったのは、盗難事件とは似ても似つかない、遠い過去のできごとでした。
戦死した彼女の父は、まだ若かった頃、ネヴァダ州の鉱山町で首吊りにされかけていた一人のイギリス貴族を助け出したことがある。命を救われたその男は、いつか財産を相続することがあれば、その半分を謝礼として渡そうと約束していたのだといいます。
だから、その数十年来の口約束を、いまこそ取り立ててほしい——それがクララの願いでした。荒っぽい西部の逸話と、貴族の相続話と、あいだに横たわる長い歳月。
あまりに突拍子もないその話に、しかしウルフは何かしら心を動かされ、たった一ドルの報酬でこの依頼を引き受けます。会社で起きた盗難と、遠い昔の口約束。
一見まるで無関係に見える二つの筋が、やがて思いがけない形で絡み合いはじめる。その入り口までを、本書はたっぷりと時間をかけて用意します。
読みどころ
盗難事件と古い口約束という、噛み合わない二つの依頼が同時に走るところに、本作ならではの面白さがあります。 片や現実的で生臭い会社の金銭問題、片や半ば昔話めいた約束の取り立て。
普通なら一つで十分な骨格を、本書は性質の異なる二本立てで組み上げています。しかも、その二つを結ぶ蝶番の位置に立っているのが、盗難事件では疑われる側でありながら、自ら別の依頼を持ち込んできたクララその人である——この構図が、物語に一筋縄ではいかない奥行きを与えています。
読者は、噛み合わないはずの二つの筋がどこでどう触れ合っていくのかを気にかけながら、ページを繰ることになります。突拍子もない話をたった一ドルであっさり引き受けてしまうウルフの、その底の知れない判断もまた、早い段階から強い引っかかりとして残ります。
事件が起きてすぐ緊迫した展開へ雪崩れ込むスピード感を第一に求めると、二つの依頼を並べて見せていく序盤の運びは、少し悠長に映るかもしれません。ただ、その落ち着いた歩調こそが、依頼人を値踏みし、突拍子もない話を一ドルで引き受けてしまう巨漢の探偵の、食えない風格をじっくり味わうための時間でもあります。
派手な謎そのものより、その謎を前にした人物の身の振り方に目が向く読者ほど、この一作を面白がれるはずです。急がず、この一風変わった名探偵と付き合う心づもりで開くのがよさそうです。
手に取るなら
手に取るなら、ハヤカワ・ミステリ文庫の一冊です。原題は The Rubber Band、邦訳は1962年に世へ出て、以来長く読み継がれてきました。
ネロ・ウルフ・シリーズの第3作にあたるので、この巨漢の名探偵とその助手が織りなす世界に、比較的早い段階から分け入ってみたい読者にも向いています。まずはこの探偵の風変わりな流儀に触れてみたいという方に、静かにおすすめできる一編です。