ミステリーとしての読みどころ
チョコレートを一粒口にした若い女性が、その場で崩れ落ちる。ニューヨークでも超一流と評判の婦人服店、華やかな流行の最先端を舞台に、こんな不吉な一場面から幕が上がるのが、レックス・スタウト『赤い箱』です。
事件に向き合うのは、食にこだわる巨漢の美食家探偵ネロ・ウルフ。気の進まない様子で調査へ乗り出すこの名探偵の前で、毒による死は、やがて一つでは終わらなくなります。
優雅な流行の舞台に突然そぐわない毒死が持ち込まれる、その落差そのものが、最初の頁からの引力になっています。
著者について
レックス・スタウトが世に送り出したネロ・ウルフと、その助手アーチーのコンビは、1934年から40年以上にわたって書き継がれた、アメリカ・ミステリを代表する探偵たちです。事実を吟味する巨漢の頭脳と、その手足となって街を駆けまわる相棒。
二人の息の合った掛け合いが、長寿シリーズの核となりました。食にこだわる美食家という探偵の造形は、事件がもたらす混沌とくっきりした対照をなしています。
本作『赤い箱』は1937年に発表された初期の一編で、コンビの型がちょうど固まりつつあった頃の作品にあたります。骨格が整いきる手前の、みずみずしさが残る時期の一作と言ってよいでしょう。
物語が動き出すのは、ニューヨークでも指折りと評判の、超一流の婦人服店です。着飾った人々が行き交うその華やかな店内で、一人のファッション・モデルが菓子を口にした直後に倒れ、そのまま息を引き取ってしまいます。
毒殺。流行の最先端という優雅な舞台に、突然そぐわない死が持ち込まれるのです。
報せを受けたウルフは、気乗りしない素振りを見せながらも、嫌々ながら重い腰をあげ、みずから現場へ足を運んで調査を始めます。腰の重い探偵をこれだけ動かす事件だと思えば、その底知れなさが読み手にも伝わってきます。
ところが、次の惨事は、まったく思いがけない場所で起こります。二つめの殺人の現場となったのは、ほかならぬウルフ自身の事務所。
しかも倒れたのは、あの婦人服店の経営者でした。その人物は息を引き取る間際に、「赤い箱」という短い一言だけを残していきます。
手がかりと呼ぶにはあまりに切れ切れなその言葉を、ウルフは推理の起点として拾い上げる。自分の仕事場にまで死が踏み込んでくる展開は、気の重い探偵を、いや応なく事件の渦中へ引きずり込みます。
そして事件は、そこでも止まりません。ウルフが少しずつ糸をたぐり寄せていくさなか、三つめの殺人が起こります。
毒による死が連鎖し、犠牲者が積み重なっていくなかで、「赤い箱」という言葉だけが、揺らぐことなく事件の中心に居座りつづける。凶悪な連続毒殺事件を前に、読者は探偵のかたわらで、途切れがちな手がかりが少しずつ形をなしていく過程を、じりじりと見守ることになります。
読みどころ
この作品の張りは、事務所という探偵の領分にまで、死が二度、三度と踏み込んでくる構図にあります。 最初の毒死は華やかな店の中の出来事でしたが、二つめの殺人はウルフ自身の仕事場を舞台に選び、事件との距離を一気に詰めてきます。
よそで起きた謎を安全な位置から眺めるのではなく、自分の足元で人が死ぬ——その緊張が、探偵を推理へ駆り立てる原動力になっています。切れ切れの「赤い箱」という言葉だけを頼りに、ばらばらの事実が一つの像へまとまっていくさまを待つ楽しみは、この型の謎解きならではのものでしょう。
毒殺という題材も、古典的でありながら手堅く組まれています。派手な仕掛けに頼るのではなく、誰が、なぜ、どのように、という問いを一つずつ積み上げていく作り。
連続する死をただ数で押すのではなく、そのたびに事件の像を描き直させていく運びに、初期スタウトの誠実さがうかがえます。犠牲者が一人増えるごとに、それまで見えていた事件の輪郭が静かに塗り替えられていく。
その手応えが、連続毒殺という重い題材を、ただ陰惨なだけの読み物にしていません。巨漢の探偵と相棒の掛け合いが、重なっていく死の暗さを程よく和らげてくれるのも、このコンビならではの読み味でしょう。
緊張とやりとりが交互に訪れるおかげで、物語は最後まで息苦しくなりません。
派手なアクションや息もつかせぬ疾走感を求めて開くと、腰を据えたこの語り口は、いくぶん悠長に映るかもしれません。けれども、癖の強い名探偵の人物像をゆっくり味わいながら、手がかりが静かに像を結んでいく過程を追いたい読者には、これ以上ないくつろぎの時間になるはずです。
個性の立った探偵と相棒の会話そのものを楽しみたい人、腰を落ち着けて長いシリーズと付き合ってみたい人にも、よく馴染む一冊です。
手に取るなら
現在手に取るなら、早川書房のハヤカワ・ミステリ文庫版があります。原題は The Red Box、発表は1937年。
凶悪な連続毒殺に美食家探偵ネロ・ウルフと助手アーチーが挑む、スタウト初期の傑作として評価の高い一編です。長く読み継がれてきたウルフものの入り口としても手頃で、巨漢の名探偵とその相棒が作り出す独特の呼吸を知るには、確かな出発点になってくれます。