ミステリーとしての読みどころ
アイルランドの荘厳な子爵邸に招かれた名探偵の前で、屋敷の女主人が一族の誰も予想しなかった宣言を口にする——『閉じられた棺』は、古典本格の道具立てをこれ以上ないほど端正に並べ直したところから幕を開けるミステリーです。カントリーハウス、晩餐の席、少しずつ張り詰めていく空気。
かつてエルキュール・ポアロが幾度もくぐり抜けてきた舞台が、現代の書き手の筆でもう一度、丁寧に組み上げられていきます。
著者について
著者のソフィー・ハナはイギリスの作家・詩人で、自身の犯罪小説でも高く評価されてきた書き手です。ただ、ここで彼女が引き受けているのは並の仕事ではありません。
クリスティの遺志を守る財団から正式に「ポアロ続編」の執筆を委ねられた、現在のところ唯一の作家。そのシリーズは『モノグラム殺人事件』に始まり、本作『閉じられた棺』を経て、『The Mystery of Three Quarters』『The Killings at Kingfisher Hill』『Hercule Poirot's Silent Night』へと連なっていきます。
『閉じられた棺』は、その系列の第2作にあたります。
第1作でハナは、ポアロとスコットランドヤードのキャッチプール警部という新しいコンビを世に送り出しました。それから2年、続く物語の舞台に彼女が選んだのが、アイルランドの邸宅という、これ以上なく古典的な場所だったわけです。
財団公認という重い看板を背負いながら、あえて逃げ場のない王道に踏み込んでいく——その選択自体に、書き手としての覚悟がにじんでいます。
物語が動き出すのは、その荘厳な子爵邸です。招待主は、著名な推理小説作家であるレディ・プレイフォード。
彼女は家族と弁護士、そして再会を果たしたポアロとキャッチプール警部を、自邸の晩餐へと招き入れます。旧知の顔ぶれと新しい客人が食卓を囲み、屋敷にはくつろいだ夜が訪れるはずでした。
ところが女主人が発表したのは、その場の誰も——ポアロでさえ——予期しなかった一言です。全財産を、余命わずかな秘書ジョゼフ・スコッチャーに遺す。
たったそれだけの宣言が、和やかだった食卓の温度を一瞬で変えてしまいます。当然のように相続を見込んでいた子どもたちは、いきなり蚊帳の外。
列席者の表情がこわばり、交わされる言葉の裏に含みが生まれ、荘厳な邸宅の空気は張り詰めていきます。なぜ、いま、この人に。
誰もが胸の内で同じ問いを転がしながら、その夜は更けていきます。
そして人々がようやく眠りについたころ、屋敷の内側でおぞましい事件が起こります。あの不可解な宣言からほんの短い時間しか経っていない、という事実そのものが、ポアロとキャッチプールの捜査の出発点になります。
なぜ、よりによってこのタイミングだったのか。二人が屋敷に集った人々一人ひとりの言い分を聞いて回るうちに、晩餐の席で確かに交わされていたはずの会話が、少しずつ違う意味を帯びはじめる。
読者は招かれざる客のように、この閉じた邸宅の食卓へ同席させられ、誰の言葉を信じてよいのか分からないまま、剥がれていく事実の手触りを追っていくことになります。
読みどころ
本作の勘所は、クリスティのポアロものが持っていた「型」を、ハナがどこまで自分の手で書き直せるかという一点にあります。 閉じた共同体に人々が集い、それぞれが抱えた事実が捜査によって一枚ずつ剥がされていく——その古典的な構造は、道具立てを並べるだけでは再現できません。
カントリーハウスに集う人々の関係、英国社交界特有の含みのある会話、屋敷そのものがまとう沈黙。使い古されたようにも見える素材を、現代の筆でどこまで生きた緊張へと変えられるか。
古典本格の呼吸が好きな読者ほど、その手つきを味わう楽しみは深くなるはずです。
第1作『モノグラム殺人事件』を読んでいれば、ポアロとキャッチプールという凸凹コンビの間合いを、もう一段深く知る機会にもなります。飄々とした名探偵と、どこか不器用な相棒。
二人がやり取りを重ねるほど、屋敷の謎とは別のところで小さな味わいが積み重なっていきます。
一方で、奇抜な特殊設定や派手な趣向を期待して手に取ると、その端正さが物足りなく映るかもしれません。本作が差し出すのは、あくまで晩餐と邸宅と会話という、由緒正しい道具立てで組み上げられた謎解きです。
逆に言えば、黄金期のカントリーハウスものに流れていた空気そのものが好きな読者、名探偵の采配に身をあずけて一夜の邸宅にとどまっていたい読者には、これ以上なく居心地のよい一冊でしょう。
手に取るなら
入手はハヤカワ文庫クリスティー文庫版(2017年、山本博・遠藤靖子訳)で。第1作『モノグラム殺人事件』から順に読めば、ポアロとキャッチプールの関係の変化を自然に追えますが、古典的な邸宅ものとして独立しても十分に楽しめるため、本作から入っても差し支えありません。
クリスティの遺した名探偵が、現代の書き手の手でどう息を吹き返すのか。その試みの確かな一歩として、読後に静かな満足の残る続編です。