ミステリーとしての読みどころ
内側から鍵がかかり、鎧戸まで固く閉ざされた小部屋。その中で令嬢が血にまみれて倒れているのに、襲った者の姿はどこにもない——。
ミステリを読む人なら一度は耳にする「密室」という言葉。その原型のひとつを打ち立て、100年を超えてなお読み継がれているのが、この『黄色い部屋の謎』です。
著者について
作者のガストン・ルルーは1868年、パリに生まれました。はじめは法律を学んで弁護士の資格まで取りながら、やがて筆一本の世界へ移っていった人です。
日刊紙《エコー・ド・パリ》に記事を寄せ、劇評や裁判記録を数多く手がけ、《ル・マタン》紙の特派員としても各地を飛び回りました。事件や裁判の現場を肌で知る新聞記者——その経歴が、本作の探偵に青年新聞記者を据えた発想と無縁でないことは、読み進めるうちにおのずと伝わってきます。
代表作となった本書は、1907年に《イリュストラシオン》紙の文芸付録に連載され、翌1908年に一冊にまとまりました。ルルーといえば、映画にも舞台にもくり返し姿を変えてきた『オペラ座の怪人』の作者として記憶している方も多いでしょう。
けれどミステリの歴史のなかでは、この『黄色い部屋の謎』こそが彼の名を不動のものにしています。密室ミステリの古典として、いまも「必読書中の必読書」と呼ばれ続けている一冊です。
物語の入り口
舞台は、ある城の離れ。そこに、科学者スタンガルソン教授と令嬢マティルドが暮らしています。
ある夜、離れの一室——のちに「黄色い部屋」と呼ばれることになる小部屋で、事件は起こります。
その部屋は、内側から施錠された完全な密室でした。扉には鍵がかかり、窓の鎧戸も閉ざされている。
人ひとり出入りできる隙など、どこにもありません。にもかかわらず、部屋の中では令嬢マティルドが何者かに襲われ、血の海に倒れていたのです。
では、襲った者はどこへ消えたのか。閉じきった部屋から、犯人はいったいどうやって抜け出したのか。
踏み込む糸口さえ見当たらないこの状況が、読者の前に静かに、しかし揺るぎなく突きつけられます。
事件はそれだけでは終わりません。やがて城では、再び怪事件が持ち上がります。
ひとつの不可能が解けないうちに、次の謎が重なってくる。城を包む空気は張りつめ、その場に居合わせる者たちの緊張が、こちらへそのまま伝わってくるようです。
この謎に挑むのが、二人の男です。ひとりは18歳の青年新聞記者、ルルタビーユ。
もうひとりは、パリ警視庁の警部ラルサン。世代も立場も異なる二人が、同じ密室を前に、それぞれのやり方で推理を組み上げていきます。
読者は二本の推理の線を見比べながら、自分ならどちらの筋道に説得されるだろう、と引き比べつつ先へ進むことになります。
読みどころ
本作の面白さは、謎の不可解さと、その謎があくまで正々堂々と読者に開かれている手ざわりが、同居しているところにあります。 密室の状況は、これ以上ないほど不可能に見えます。
それでいて、真相にたどり着くための手がかりは、物語のなかにきちんと差し出されている。読者は探偵とまったく同じ材料を手にして、同じ盤面で頭をひねることができるのです。
「解けるはずのない謎に、解くための材料は揃っている」——この緊張感こそ、のちの本格ミステリが受け継いでいく原点にほかなりません。
もうひとつ、本作を語るうえで欠かせないのが、事件そのものの見せ方の巧みさです。ひとつの不可能状況を提示し、それが解けないうちに次の怪事件を重ねていく——この畳みかけによって、城には出口の見えない不安が満ちていきます。
読者は探偵たちとともにその渦中に置かれ、謎の重みをそのまま我が身に引き受けながらページをめくることになります。事件の輪郭を追う面白さと、張りつめた空気に呑まれていく感覚。
その両方が同時に押し寄せてくるのが、この物語の忘れがたいところです。
100年以上前に書かれた作品でありながら、密室という趣向の切れ味はまるで古びていません。むしろ、後の数多の作家がこの一作を出発点として不可能犯罪の趣向を磨いていったことを思うと、いま読み返すことには特別な意味があります。
ミステリという遊びがどこから始まったのか。その源流を自分の目で確かめる読書になるはずです。
名探偵の推理に身を委ね、フェアな謎解きと正面から向き合いたい読者には、まっすぐ薦められる一冊です。逆に、スピード感あふれる現代的なスリラーを求めて開くと、物語の運びや語り口に時代の呼吸を感じる場面はあるかもしれません。
けれど、その古風な佇まいごと味わうのが、古典を読む醍醐味でもあります。腰を据えて謎と向き合う、静かな夜にこそ似合う物語です。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の新訳(平岡敦訳)がおすすめです。ジャン・コクトーの序文を添えた決定版で、巻末には戸川安宣による解説も収められています。
訳者の平岡敦は、ジャプリゾ『シンデレラの罠』やグランジェ『クリムゾン・リバー』などで知られるフランス文学の名手。こなれた新訳のおかげで、この密室物の原点にもすんなり入っていけます。
青年記者ルルタビーユは続くシリーズでも活躍する人物ですから、本作で出会って心惹かれたなら、その先の物語を追う愉しみもまた待っています。