ミステリーとしての読みどころ
かつて自らの潔白を法廷で勝ち取った男が、今度は判事の椅子から被告席へと引きずり降ろされる。『無罪 INNOCENT』は、そんな残酷な巡り合わせを軸に据えた法廷ミステリです。
裁く側にいたはずの人間が、再び裁かれる側に立たされる。しかも彼を訴追するのは、二十年前に彼へ苦杯を嘗めさせられた、因縁の相手なのです。
著者について
著者のスコット・トゥローは、法廷ものを語らせれば右に出る者のいない書き手のひとりです。本作は、一時代を築いた歴史的名作『推定無罪』の続編にあたります。
前作から約二十年後を描き、あの検事補殺しの裁判をくぐり抜けた主人公ラスティ・サビッチが、時を経て控訴裁判所の判事の座にまで昇りつめた姿から物語は始まります。裁く者へと立場を変えた男が、しかしもう一度、法という装置の前に引き出される。
続編とは往々にして前作の余熱で保つものですが、本作はその余熱を燃料に、まったく新しい火をくべ直しています。原書の刊行は二〇一〇年、日本では二〇一三年に文藝春秋から単行本として届けられました。
前作を通り抜けてきた読者にとって、この再会そのものが特別な意味を帯びる一冊です。
物語の発端となるのは、サビッチの妻バーバラの死です。彼女は変死体となって発見されます。
ここで一点、看過できない事実が浮かび上がる。遺体が見つかってから、その死が通報されるまでのあいだに、空白の一日が横たわっていたのです。
なぜ、その一日は空いていたのか。判事という職にある夫は、その時間に何をしていたのか。
ひとたびこの疑問が芽を吹くと、周囲の視線は静かに、しかし確実にサビッチへと集まっていきます。
疑惑はそれだけにとどまりません。検事局が調べを進めるうちに、サビッチには愛人がいたという事実が浮かび上がってくる。
妻の不審な死、埋まらない一日、そして隠されていた関係。ひとつひとつは決め手を欠く状況証拠にすぎないはずなのに、それらが積み重なるにつれ、いつしか一人の男を包囲する網へと編み上がっていきます。
法廷ミステリの怖さは、こうした一片ずつの事実が、それ自体は罪を証明しないまま、それでも確実に一人の人間を追い詰めていくところにあります。読者は、証拠が一枚ずつ重ねられていく過程を、判事席と被告席のあいだの宙ぶらりんな場所から見つめることになります。
彼は本当に妻を手にかけたのか。それとも、状況がただ彼を追い詰めているだけなのか——その判断を、こちらは終始留保させられ続けるのです。
判事という立場を知り尽くした男の沈黙が、無実の証なのか、それとも何かを覆い隠す壁なのか。読み手はその答えを、最後まで手渡してもらえません。
そして、ここに一人の男が動き出します。地方検事トミー・モルト。
彼こそ、かつての裁判でサビッチに屈辱的な敗北を喫した当人です。長い年月を経て再び差し出された標的を前に、モルトはサビッチを妻殺しで訴追することを決意します。
かつて手からこぼれ落ちた相手が、いま再び射程に入ってきた。その巡り合わせを、彼はどんな思いで見つめたことでしょう。
二十年越しの因縁を背負った検事と、かつて無罪を勝ち取った判事。この二人が法廷でふたたび相まみえるという構図だけで、物語は一気に張り詰めていきます。
過去の決着がまだ終わっていなかったことを、双方が骨身で知っているからこそ、法廷の空気は最初から尋常ではありません。
読みどころ
本作の読みどころは、同じ舞台に立つ二人の男の、二十年という時間の重みにあります。 かつて対峙した検事と被告が、立場も年齢も変えて、もう一度同じ法廷で向き合う。
復讐とも執念とも呼べるモルトの動機と、すべてを見透かされまいとするサビッチの沈黙が、審理の一手ごとにせめぎ合っていく。単発の事件を追う法廷劇ではなく、前作の構造をそっくり土台に敷いた上で建て直された続編だからこそ生まれる緊張です。
前作の記憶を携えて読む人ほど、細部のひとつひとつが余韻を連れて響いてくるはずです。
もっとも、法廷ミステリという形式は、派手なアクションや目まぐるしい展開を期待する読者には、やや地味に映るかもしれません。本作の醍醐味は、証言と証拠と駆け引きが少しずつ真相の輪郭を炙り出していく、その静かな緊迫にあります。
人間の愛と憎悪が法という枠のなかでどこまで抑え込まれ、どこで漏れ出すのか。そうした内面の機微を腰を据えて味わいたい読者にこそ、深く刺さる一冊でしょう。
逆に言えば、腰を落ち着けてページと向き合える時間を用意して臨むのが、この作品を最も楽しむ近道です。
手に取るなら
入手は文藝春秋の単行本で、二〇一三年の刊行です。歴史的名作の続編という看板は伊達ではなく、重厚さにおいて前作に恥じない仕上がりになっています。
可能であれば、まず『推定無罪』から順に読み進めるのが理想です。前作で味わった感触を胸に本作へ踏み込んだとき、この続編がなぜ「続編の名に恥じぬ傑作」と評されるのか、その理由が最もくっきりと立ち上がってくるはずです。