ミステリーとしての読みどころ
遺された、一足の靴。そこを起点に、名探偵は犯人の名までを純粋な論理だけでたぐり寄せていきます。
『オランダ靴の謎』が読者に差し出すのは、派手な追跡でも劇的な舞台転換でもありません。小さな事実を一つずつ拾い、その積み重ねだけで一人の人物を名指しするまでの、理詰めの手続きそのものです。
犯人当て本格の到達点と評されることがあるのも、この潔いまでの一点張りゆえでしょう。
著者について
著者のエラリー・クイーンは、じつは一人の作家の名ではありません。ダネイとリーという二人が組んで用いた、合作のためのペンネームです。
そして少々ややこしいことに、彼らはその筆名を、作中で謎を解く名探偵の名としても使いました。本を開くと、表紙の作者と同じ名を持つエラリーが、探偵役として事件のただ中に立っている——書き手と探偵が名前を分け合う、この人を食った趣向からしてクイーンらしいところです。
本作は、作品名に国名を冠した〈国名シリーズ〉の第3作にあたり、原書の刊行は1931年。手がかりをすべて読者の前に並べ、あとは論理だけで決着をつけるという、シリーズが磨き上げてきた流儀がここでも一貫しています。
物語の入り口
舞台は、資産家の老婦人ドーン夫人が創設した記念病院です。物語は意外にも、事件の犠牲者を探すより先に、その夫人自身の身に起きた出来事から動き出します。
院内の階段から転落して重態に陥った夫人は、一刻を争う容態のまま、緊急の手術のために手術室へと運び込まれていきます。自らの名を冠した病院で、その創設者が生死の境をさまよう——幕開けからして、どこか据わりの悪さがつきまといます。
そしてこの日、友人の医師を訪ねてたまたま病院に足を運んでいた人物がいました。名探偵エラリーです。
せっかく居合わせたのだからと、彼はこの緊迫した手術を見学させてもらうことになります。ところが、いざ執刀へと患者にかけられていた白布がめくられた、まさにその瞬間。
手術台に横たわっていたのは、これから執刀を受けるはずの重症の夫人ではありませんでした。すでにこと切れた、夫人の絞殺死体だったのです。
人の命を救うために整えられたはずの手術室が、一転して殺人の現場へと変わります。
考えてみれば、手術室ほど人の出入りする場所もそうはありません。医師やスタッフが立ち働き、患者が運び込まれ、外部からの見学者すら立ち会っている。
そんな開かれた場のごく短い空白のあいだに、標的は音もなく手にかけられた。命を救うために整えられたはずの一室が、いつのまにか殺人の舞台へとすり替わっている。
この鮮烈な幕開けが、読者を一気に事件の渦中へと引き込みます。開かれた場所で、ほんの短い時間のうちに起きた出来事——その不可解さだけを胸に、物語は動きはじめます。
たまたま立ち会っていたエラリーは、動転する現場をすぐさま保全し、そのまま捜査へと踏み込んでいきます。そして不吉は、これひとつでは終わりません。
やがて一人の外科医が、第二の犠牲者となって倒れるのです。エラリーとともにこの状況に立ち会うところから、純粋な推理の道行きが始まっていきます。
読みどころ
この作品の核にあるのは、手がかりと論理だけで人を追い詰めていく、その筋道の透明さです。 ここで示される証拠は、読者にも同じだけ開かれています。
エラリーが握っている材料は、そのまま読者の手の内にもある。だからこそクイーンは、結末の直前に恒例の「読者への挑戦」を差し挟みます。
物語がふいに立ち止まり、必要な手がかりはもう出そろった、あとはあなたが解く番だ、と正面から問うてくる。その一行を境に、読者は物語を追う傍観者から、探偵と肩を並べる解き手へと立場を変えることになります。
名探偵の推理にただ身を任せて読み進めるもよし、挑戦を受けて立って自力で答えを出してみるもよし。一冊で二通りの遊び方ができるのは、フェアな解決を約束するこの型ならではの贅沢と言えるでしょう。
作者が読者を対等の相手と見なし、正々堂々と勝負を挑んでくる——その清々しさが、本作の読み味を古びさせずにいます。
論理のパズルとして、一分の隙もない解決を最後まで見届けたい読者には、これ以上ないほど手応えのある一冊です。ばらばらだった手がかりが一つずつ意味を帯び、やがて一本の線へと収束していく感触は、この時代の本格ならではのもの。
一方で、登場人物の情感や事件の背景にたっぷり浸りたい、あるいは物語のうねりで一気に読ませてほしいという向きには、この理知的な運びはやや淡白に映るかもしれません。ここで前に出るのは、あくまで論理の冴えであって、人間ドラマの濃さではないからです。
ただ、その禁欲的なまでの純度こそが本作の身上であり、謎を解くこと自体の面白さを、余計なものを差し引いて正面から味わわせてくれます。
手に取るなら
いま手に取るなら、創元推理文庫の中村有希による新訳が読みやすくおすすめです。〈国名シリーズ〉の第3作にあたる、初期クイーンの代表作の一つです。
黄金期アメリカの本格が到達した「論理だけで犯人を名指しする」という一つの極点を、まずはこの一冊で確かめてみてください。