ミステリーとしての読みどころ
ケント州の森で、頭部を銃で撃たれた死体が見つかります。地元の警察はこれを自殺と見て、早々に幕を引こうとしている——その判断にどうしても得心のいかない人物が、たった一人だけいました。
『ビーフ巡査部長のための事件』は、そこから静かに動き出す一編です。かつて巡査だった男が私立探偵に転身し、片づけられかけた事件をもう一度ていねいに掘り返していく。
謎解きの手がかりは読者の前に律儀に並べられ、こちらはビーフと同じ地点に立って、同じ材料から真相を探ることになります。フェアプレイの精神が、一行目から最後まで貫かれた作品です。
著者について
書き手はレオ・ブルース。『三人の名探偵のための事件』『死の扉』といった作品で知られる、英国黄金期本格の巨匠です。
名探偵ビーフを主役に据えたシリーズを書き継いだ作家で、本作はそのシリーズの第六長編にあたります。主役のビーフは、もとは制服を着た一介の巡査でした。
それが警察という組織を離れ、看板を掲げた私立探偵として腕をふるうようになる——名探偵にありがちな貴族趣味や超人めいた才気とは一線を画す、たたき上げの捜査官という立ち位置が、このシリーズの持ち味です。発表は一九四七年。
黄金期の掉尾を飾る時期の仕事でありながら、手がかりの配置とフェアプレイの精神という、この時代の本格が磨き上げてきた作法を、正面から引き受けた一冊です。邦訳は二〇二〇年、扶桑社ミステリーから届きました。
物語には、二つの線が引かれています。ひとつは、いま述べた森の死体をめぐる線。
ケント州の「死者の森」という不穏な名を持つ場所で発見された遺体を、地元警察は自殺として処理するつもりでいる。それを案じた被害者の妹が、警察を退いて私立探偵を始めたばかりのビーフのもとを訪ね、事件の再調査を頼み込むのです。
身内の死をこのまま曖昧に葬られたくない——その切実な依頼から、ビーフの調べは始まります。
もうひとつの線は、それより一年前にさかのぼります。ウェリントン・チックルという男が、一冊の日誌を書き起こしていました。
その最初のページで、書き手はまず、殺人を実行する決心をしたと宣言します。そして、ここが肝要な点なのだが——と自ら念を押したうえで、「私には動機がないのだ」と書きつけるのです。
殺意だけがあって、それを説明する理由がない。動機という、探偵小説がもっとも頼りにしてきた道しるべを、あらかじめ手放してしまったかのような、奇妙な宣言です。
森で見つかった死体と、一年前に書き始められた殺人計画の手記。この二つがどこで、どのように関わってくるのか。
錯綜する証拠の山を前に、ビーフはひとつひとつ足で確かめていきます。読者もまた、並べられた手がかりを同じように吟味しながら、この事件がどんな形をしているのかを手探りすることになる。
動機なき殺意という不穏な前提が、物語の底で低く鳴りつづけます。
読みどころ
読みどころは、フェアプレイの作法を守り抜いたうえで凝らされた、構成の妙にあります。 レオ・ブルースは緻密な手がかりの配置と企みで知られる書き手で、本作でもその技巧が惜しみなく注がれています。
読者に対して隠しごとをしない。必要な材料はすべて盤面に出したうえで、それでも読み手を感嘆させる——その、いわば正々堂々とした企みこそが、この作家の身上です。
手がかりは目の前にあったのだと、読み終えてから思い当たる。そういう作りを好む読者にとって、これほど誠実な相手はそういません。
扶桑社版の紹介文が『野獣死すべし』ばりの構成の妙をうたっているのも、その手腕への信頼のあらわれと言えるでしょう。
もう一点、名探偵ものとしての味わいも見逃せません。制服を脱いで私立探偵になったビーフという主役は、警察の見立てをくつがえす側に立つ人物です。
お仕着せの結論に抗って、地道に事実を積み直していくその足取りには、権威に寄りかからず論理だけで勝負する探偵小説の醍醐味がよく表れています。
作り込まれたフェアな謎解きを、腰を据えて味わいたい読者にまっすぐ薦められる一冊です。手がかりを自分の手で並べ替え、探偵と競うように考えたい人ほど、この構成は応えてくれます。
逆に、派手な活劇や速い展開を求めて開くと、証拠を丹念に検証していく前半の呼吸は、少しゆっくりに感じられるかもしれません。けれどもその丁寧さこそが、フェアプレイを成り立たせている土台でもあります。
急いで真相へ駆け抜けるより、探偵と歩調を合わせて考える時間そのものを楽しめる人に向いた作品です。
手に取るなら
手に取るなら、扶桑社ミステリーの一冊です。巻末には三門優佑による解説が添えられ、作品の勘どころや作家の立ち位置、そして黄金期本格のなかでの座標を知る手がかりになります。
ビーフ巡査部長を主役としたシリーズはほかにも訳されており、本作で語り口や企みの妙に惹かれたなら、同じ探偵の活躍する作品へと読み進めていく愉しみも待っています。